昨晩の邪馬台国サミット雑感

 昨晩NHKのBSで「邪馬台国サミット」と題する番組があった。内容は魏志倭人伝に関するものが中心で、相も変わらず邪馬台国は九州か奈良かと論じていた。

 そもそも魏志倭人伝には「邪馬壹国」と記されており、それを「邪馬臺国」の誤りとし、更に「臺」を「台」と変えて論じるのは大きな間違いである。後漢書には「邪馬臺国」と記され、宋書では「邪馬堆国」と記され、魏志倭人伝の「邪馬壹国」と併せて三つの表記が存在する。これらの正誤を論じるのは大間違いであり、どれも正しいと考えるのが当然である。問題はこれらがその国においてどう発音されていたかである。ずばり結論を言うと、いずれも「やまと」を表そうとしたものであろう。以前、著者も書名も忘れたが、或る本で、上古音をあてはめると「邪馬壹」が「やまと」に一番近いと論じていた。と言うことは「壹」は「臺」の誤りでは無く、「やまと」の音を表す為に「邪馬壹」なる文字を当てたと考えるべきであろう。

 上古音が古代の音とされるが、古代と言っても長い。時期によって音は変わる筈である。また時期は同じでも地域によっても音は異なる筈。つまり「やまと」を表すには後漢時代は「邪馬臺」が、宋においては「邪馬堆」が適していたのであろう。この問題を日本語の音で考えるのは間違いで、それぞれの国の音で考えねばならぬ。今一つ、固有名詞に関しては文字を変えてはならないと知るべきである。現在の日本語では「台」は「臺」の略字として同一文字として扱われることが多いが、我が国においても法的には別の字と見做される。例を上げると、戸籍に「渡邉」と記されているのに、「渡辺」と書いたら別人と見做される。まして他国の文書を勝手に書き換えるのは論外であり、固有名詞の扱いは気を付けねばならぬ。

 次に魏志倭人伝倭国と邪馬壹国は別の国であり、倭国は北九州にあり、邪馬壹国は「大和」であって、纏向遺跡がこれに該当するかも知れない。倭国と大和がかなり長期間に渡って並立していたのは間違いないし、どちらも倭人の国である。旧唐書に倭の使節と日本の使節が一緒に訪れたことが記されている。この日本は「やまと」が改称した国であって、後漢書では邪馬台国魏志倭人伝では邪馬壹国、宋書では邪馬堆国と記されていた国である。

 以上から明らかなように卑弥呼倭国の女王であり、「やまと」の女王の名は魏志倭人伝には記されていない。なお、卑弥呼の次の女王の名は同書に書かれているように「壹與」であり、「台与」と変えるのは間違いである。

 邪馬台国サミットで一つ注目すべき論述があった。陳寿魏志倭人伝を書くに当たって参考にした資料があり、それによると倭人は距離を言う際に「里」を知らず、所用日数で距離を表して居たと書かれていると言う。従って魏志倭人伝で距離を「里」で記している個所は魏の使節が実際に訪れた場所、日数で記した個所は倭人からの伝聞であると言う。これは適切な指摘であり、これにより幾つかの疑問が氷解する。邪馬台国論争に関連して述べたいことが色々と有るが、また別の機会に述べることとする。