復元なった大洲城

三重大学藤田助教授によると、脇田安治が淡路から移封された時、藤堂高虎が安治に洲本城の天守閣を移築させた由。これは大坂包囲網の一環で、九州に対する睨みとのこと。
大洲城は、比志城、地蔵ヶ嶽城、根来城、大津城、等々、古来多くの名前がある。大洲城の案内パンフレットには、大洲城鎌倉時代に宇都宮豊房によって築かれた地蔵ヶ嶽城に始まると記されているが、屋島合戦の頃は比志城であった。屋島合戦の際に河野通信は平家の兵力の過半数を引き付けて比志城で迎え撃ち、義経はその手薄になった隙を衝いて屋島陥落させた。比志城の戦いは五日間に及ぶ激戦だったと、予章記や水里玄義に記されている。屋島合戦の前に平家が屋島の兵力の六割もの軍勢を通信討伐に送り出したのは、平家方が通信の陽動作戦に引っ掛かったためではないだろうか。この時代の名「比志」が後に「肱」になまったのではないかとの推測もある。
なお、大洲城には中世の遺構も明瞭に残っていると聞く。それも併せて見えるようにすべきではなかったか。近世城郭のみを復元したのは片手落ちで、大洲城及び大洲地域の長い歴史を展望できるようにするのが本当であろう。
 大洲城天守
 同 上
 大洲城築城工事模型
 三の丸南隅櫓
 天守閣から見た肱川