義経は海にも通じていた?

周さんが「周の発言」の5月7日の記事で、「この秋山好古の言うとおり、義経という人は騎馬戦に関しては、素晴らしい武将だったかと思います。そして、この屋島戦においては(もちろん、その後の檀ノ浦においても)、騎馬戦の名将というだけではなかったと思いますね。」と書いている。
完全な推測によるものであるが、これは当っているのではないかと思う。義経が過ごした藤原氏の下には安東水軍があった。その頃の義経の行動は伝わっていないが、義経藤原氏配下の地を自由に動けたのなら、好奇心旺盛な義経が安東水軍を訪れたことがないとは思えない。そこで海のことや船戦のことも相当にマスターした可能性が考えられる。と言うよりこの可能性を考えない方がおかしいと思う。随分昔だがNHKの番組(「その時歴史は動いた」だったと記憶する)で、藤原氏の書簡を紹介していた。その内容は確か藤原氏蝦夷地にも影響力を持ち、大陸とも交易があったことを示すものだった。交易があったとすると、安東水軍が当然拘わっていた筈である。ひょっとしたら義経は大陸に渡ったこともあるのではないか。彼の戦法は当時の日本武士の戦い方とかけ離れており、大陸の戦い方をも知っていたのではないかと考えたくなる要素を持つ。
屋島合戦の後、松山沖の中島や今治沖の来島に義経が来たと言う伝承があると聞く。この辺りは潮の流れの強い所である。そこで義経は来るべき決戦の作戦を練り、準備をしたのではなかろうか。助けたのは場所から考えて勿論河野水軍である。また、壇の浦合戦の前日、義経は潮の流れの変化を観察して作戦を練ったと言う。これらは海を知っていればこそ出来ることである。
更に壇の浦合戦に際して多くの水軍が義経に味方したことも注目すべきである。戦の勝ち負けはは指揮官の能力により大きく左右される。義経に船戦の指揮能力が無いと思ったら、各地の水軍が味方するだろうか。味方した事実は義経に船戦の指揮能力があると認識していたことを示すものではないだろうか。
こう推測すると、周さんが「騎馬戦の名将というだけではなかったと思いますね。」と書いているのは見事に当っていると言えよう。