芭蕉の名句「古池や蛙飛び込む水の音」

佐藤弘弥氏が主催する「義経伝説 掲示板」の、 「古池に飛び込む蛙は芭蕉自身であった?!」と題する6月10日付けの記事は誠に興味深い。自分なりに要約して見よう。

この句を口ずさみながら、存在するものが行動を起こした時の波紋ということを思った。
人の行動は、この芭蕉の古池に蛙が飛び込む行為に似ている。
この古池に飛び込む蛙は、俳諧という古池に飛び込んだ芭蕉自身ではなかったか?
蛙はただ何も思わず飛び込んでいる。それが面白いのだ。芭蕉自身も偶然の成り行きで飛び込んだのが俳諧の道で、それがライフワークとなったに過ぎない。
芭蕉に限らず、すべてのことは、飛び込んで見なければなにもはじまらないのである。

また、氏はこの句が

芭蕉という俳人が捻った句が、宇宙の有り様を物語り、ブッダが悟った「在るものはない」という不滅の真理を感じさせる。

とも述べている。仏教の深奥に関わることであり、自分など到底達することの出来ない境地だが、感覚としては確かにそうだと思う。そして余談だが、最先端の物理学が描く世界像もまた釈迦の言葉に近づいて来たように感じるのも妙。
自分の今までの生涯もまさに偶然の積み重ねだった。その時期、その時期にたまたま何かが起こり、それがために今がある。その間、自分なりの満足もあれば悔いもある。湯築城跡保存運動に飛び込んだのも、その時に或るたまたまがあったからである。、その後、予想もしなかった展開や出逢いなど、様々な波紋を経験した。そうであるなら今自分がなすべきことは、この波紋の行く末を見届けることだろう。次にまた池に飛び込む機会があるかどうかは知らない。