伊豫の土岐氏や山方領主たちの消長
『伊予河野氏と中世瀬戸内世界』54〜57頁に、土岐氏や山方領主の消長に関する記述がある。
寛正5(1464)年6月26日、久万山出雲入道跡を大野氏に宛行った重見通熙・森山範直・重見元康連署状が発給されている。翌7月4日には、森山範直が寒水西方の知行権を大野氏に手離したことが判明する。こうして大野・森山・重見氏の協力態勢が固められて行く中で、先に述べた寛正伊予の乱が勃発した。彼ら山方領主たちは細川勢を国内に引き入れて、河野氏に敵対する動きを示すのである。
平岡氏が競望したとされる荏原・久万山地域には土岐一族の所領が存在した〔山内譲−2000〕。文明四(1472)年十一月二十二日、将軍足利義政が土岐氏の主張を認めて、美濃・尾張国内の所領とともに伊予の荏原郷西方・久万山内青河等地頭職を「守護使不入の地」として課役免除を行っている。しかし、伊予における権益は不安定だったらしく、土岐氏は大野氏に対して荏原・久万山に関する合力を要請し、土佐・讃岐の細川勢の合力にも期待をかけている。
土岐氏は鎌倉期に伊予に入国し、南北朝期には荏原郷の浄瑠璃寺の再建を成し遂げるなど、荏原地域一帯に勢力を広げていた一族であったが、戦国期になると平岡氏の台頭の前に次第に勢力が衰えていくことになる。
15世紀末から16世紀にかけて、予州家が衰え河野氏惣領家が一元的な支配を展開していく中で、国内領主層の守護河野氏への結集は一層進行して行った。『予陽河野家譜』によれば、永正8(1511)年、自立化をはかる宇和・山方衆を抑えるため、平岡次郎や八倉・出淵・得能氏らが攻撃をかけたとされる。実際、土岐氏や森山氏の姿は史料上から次第に見当たらなくなる。細川氏の影響力が衰える中にあって、彼らは平岡氏の急成長の前に駆逐されていったのではないだろうか。
これらの記述から次のような状況が見えて来る。
1.大野氏の勢力は寛正5(1464)年には久万山に伸びていた。
2.土岐氏が伊予に来たのは鎌倉期。鎌倉期のどの時点かが重要だが、それは判らない。
3.平岡氏が台頭し土岐氏を圧迫しつつあったが、文明4(1472)年には、土岐氏はまだ荏原郷西方・久万山内青河等を保持していた。幕府が土岐氏の主張を認めたとは、土岐氏が鎌倉期から持っていた権利を改めて確認したと言う意味ではないか。この時点で新たに「守護使不入の地」としたのではないと思われる。その守護とは、この時点では河野氏であるが、鎌倉期においては宇都宮氏であり、伊豫における土岐氏の立場を暗示する。
4.山方領主たちが細川氏と組んだことは、山方領主たちと細川氏の利害が一致していたからで、細川氏の狙いは河野氏を排除し、伊予を直轄支配することであった。
6.細川氏は既に河野氏と2郡割譲で和議を結んでいるにも拘わらず、勝元は管領の地位を利用して伊豫支配を目論んでいた。だが細川氏は自身が衰えたことにより、その目論見は成功しなかった。
7.河野氏は自立性の強い山方領主の騒動を鎮圧することにより、次第に一元的支配を強めて行った。在来説では叛乱が起きたのは河野氏の弱体化を示すものとしていたが、事実は逆で、河野氏は独立勢力の騒動を鎮圧するごとに支配力を強めて行ったと見るべきである。
8.土岐氏の荏原郷西方・久万山内青河等に対する主張を幕府は認めたが、この時幕府の実験者は細川氏であろう。幕府の決定が細川氏の意向だったとすると、土岐氏の主張を認めることにより、平岡氏の進出を押し留め同時に河野氏の支配権を殺ぐと言う効果を狙ったのではなかろうか。一連の動きから見ると、細川氏は伊豫支配を果たすことが目的であり、そのために山方領主をバックアップしたのであって、土岐氏を盛り立てる意志はなかったように感じる。この決定が細川氏でなく将軍自身の裁断なら、別の見方となる。
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関連年表(参考)
1381(永徳元年/弘和元年):河野氏、東予2郡を割譲することで、細川氏と和議成立。
1392(明徳3年/元中9年):南北朝合一。
1457(長禄元年):河野教通の病により氏族が湯築城に参会する(予陽河野家譜)。
1463(寛正4年):河野氏家臣、重見、森山、南、得能、和田氏らが一揆を企て、細川軍を引き入れようとする。
通春および教通の弟通生は大内氏に救援を依頼し、共同して細川軍に対抗。(寛正伊予の乱)
1465(寛正6年):大内政弘、「井付合戦」における内藤彌七の戦功を賞す(萩藩閥閲録)。
? :敗れた森山氏は道前に走ったが殺され、南・得能氏も湯月禅城寺で生害、重見飛騨守も湊山城で生害。
河野氏の影響力強化。
年未詳 :細川政元書状によれば、浮穴郡の久万山に対する「平岡競望」を退けるよう政元が河野通直に
申し遣わし、大野氏にも協力を求めた。宇都宮・森山両氏にも相談して平岡氏を退けるよう求めている。
1467(応仁元年):応仁の乱起こる。
1472(文明四年):将軍足利義政が土岐氏の主張を認めて、美濃・尾張国内の所領とともに伊予の荏原郷西方・
久万山内青河等地頭職を「守護使不入の地」として課役免除を行う。
1475(文明7年) :檀那河野通直(教通)、願主弥阿弥陀仏によって木像一遍上人立像(国指定重要文化財)造立。
1481(文明13年):河野通直(教通)、石手寺の山門・本堂などを再興する。
1482(文明14年) :河野通春、湊山城で死去する。
1519(永正16年):河野通宣死去
1535(天文4年):「温付堀」の普請が行われる(国分寺文書・仙遊寺文書)。これは弾正少弼通直による
湯築城拡張工事を示す記述と考えられる。