岩倉城跡

今朝の愛媛新聞に、四国横断自動車道の建設に伴い、宇和島市三間町曽根の岩倉城跡の発掘調査が進められているが、予想以上に規模が大きく、単なる枝城でなく、居城或いは詰めの城だった可能性があると報じている。その岩倉城は金山城と連携して戦っていたようで、金山城を攻めた土佐勢を岩倉城の軍勢が挟み撃ちにして追い返したこともあったと記している。
この記事に書かれている内容は考えて見れば当然のことと思われる。今城氏の本城は金山城で今城能信が居たが、父の今城能親の墓は曽根にあるらしいことから、岩倉城には能親が居たのではないかと推測する。この推測が正しければ、岩倉城は今城氏の城郭群の中では金山城の枝城であるが、当主の父能親の居城であり、記事に書かれている見解は当たっていると言えよう。
現地説明会に行きたいが、遠すぎるので行けそうもないのは残念。