伊予温故録に赤橋氏が代官として風早郡に居たとの記事

海遊庵主さんが、赤橋駿河守宗時とその子の駿河太郎重時が北条氏の代官として来て居たと記載されていると投稿。以前何で見たのか覚えがないが、それには風早郡でなく、ずっと東の山岳地帯に代官として居たと書いてあったと記憶する。
だが、中先代の乱の時恵良城に籠ったと伝えられているが、東の山岳地帯に居たのなら恵良城と繋がらない。風早郡に居たのなら恵良城に籠るのはごく自然であり、必然性がある。その意味で伊予温故録の記述は頷ける。
更に、道後平野は金澤氏と大佛氏が居たことと合わせて、承久の変の後、没収した通信の所領のうち、道後平野と風早平野は殆んど全部北条一門で抑え、北条氏の直轄領とした様子が偲ばれる。
以前川岡先生から、道後平野に伊豫守護の権力が及んだ形跡が無いと伺ったことがあるが、それはこう言うことだったのだろう。
一方判らぬことも残る。鎌倉幕府滅亡の時や中先代の乱の時、金澤氏と大佛氏の名が全然出て来ないのは何故か。戦乱を避けて逃げたのか、それともその前に伊豫から去ったのか。もし金澤氏や大佛氏が実力で支配していたなら、支配領域の広さが圧倒的に違うことから考えて、土居氏らが反幕府の兵を挙げることは不可能だったろう。だが実際には土居氏や得能氏は反幕府の兵を挙げ、国府城や根来城を襲撃しているし、攻めて来た長門探題をも撃破している。金澤・大佛両氏は何をしていたのか。一つ考えられるのは、両氏とも家臣を代官として派遣しただけだったのではなかったか。平時は権威だけで抑えることは出来ても、戦乱となったら力が物を言う。赤橋氏は代官としてでも実際に来て居たので、兎にも角にも兵を挙げることが出来たのであろう。
だが、金澤氏が来ていなかったとすると、伊予市称名寺をどう考えるか、また一つ疑問が湧く。何か記録はないものか。