心覚え

・延元元年/建武3年(1336年)この前後に尊氏、所領安堵状を通盛に与える。(通信時代の所領回復)
尊氏・直義、兵庫湊川で義貞・正成を破る。正成戦死。
・正平5年/観応元年(1350年)、尊氏らが養子足利直冬を討つために中国地方へ遠征すると、その留守に乗じて京都を脱出、師直討伐を掲げて南朝へ降る。しかし、南朝に降って後も発給文書には北朝で用いられた観応の年号を使用しており、降伏は便宜的なものであったと解釈されている。
通盛、室町幕府から伊豫国守護職に補任さる。
・正平6年/観応2年(1351年)に播磨国光明寺城(光明寺合戦)や摂津国打出浜で尊氏方を破る。尊氏方の高兄弟とその一族は、直義派の上杉能憲に殺害される。
・正平7年/文和元年(1352年)2月26日に直義は急死する。病死とされているが、『太平記』のみは尊氏による毒殺であると記している。直義が没した日は奇しくも高兄弟の一周忌に当たる。
この頃尊氏は久米良郷を通盛に与えた。ここで疑問一つ。1336年の所領安堵状で以ってこの地は既に通盛のものとなったのではないのか?
【後日整理する予定。】