焼失後初めて寶巌寺へ行く

寶巌寺が火災で焼失後、見るのが辛く訪れたことが無かった。再建もかなり進んでいると聞いたので、思い切って行って見た。
先ず配置が前と違う。本堂と庫裏を入れ換わっていた。理由は判らないでもないので、それは良いとしても、寺の由来を忍ばせるものがすっかり消えてしまっているのは戴けない。以前は軒丸瓦を始め色々な物に「隅切り折敷に三文字」の紋が刻まれていたのに、それが完全に消えている。一遍上人河野氏の出であり、寺自身河野氏と深く繋がっているのに、その繋がりを示す証しを何故消すのだろう。更に本堂の扉には「丸に九枚笹」紋が描かれていた。これの謂われは全く判らないが、寺の由緒を探る手がかりの一つの筈。それをも抹殺するとは、何を考えているのか。
寶巌寺と共に時宗の三つの聖地の一つであり時宗の総本山である遊行寺は「隅切り折敷に三文字」の紋を大きく掲げている(ココ)。もう一つの聖地、一遍上人終焉の地である神戸の真光寺も同じ。この事実は「隅切り折敷に三文字」の紋が時宗の開祖一遍上人の紋であり、それを宗派の紋章としたことを示すのではなかろうか。もしそうであるなら一遍上人生誕の地にある寶巌寺は時宗の紋章である「隅切り折敷に三文字」の紋を、遊行寺や真光寺同様に掲げるべきであろう。一遍上人河野氏の出身であることや、寺と河野氏との深い関係を忘れたのか。それともその事実を覆い隠そうとしているのか。寺の歴史を物語るものを捨て去る意図が全く理解できない。久しぶりに訪れてがっかりした。
【参考】
1.松山市道後の宝厳寺本堂焼失10日前の映像
2.重文一遍上人立像「焼失」・愛媛新聞