久しぶりに寶巌寺へ

昨日寶巌寺の落慶法要が行われた。今日はそのニュースが沢山でているが、一様に寶巌寺を一遍上人誕生の地と記している。これは誤解を招く記述で、一遍上人は現在の寶巌寺で生まれたと取られそうだ。昔、寶巌寺は大寺であり、寺の前の上人坂から裏の山一帯全部が寺域であった。その上人坂の両側に六坊ずつ支院があり、その一つで上人は誕生した。従って一遍上人誕生の地とは上人坂であり、現寶巌寺ではない。上人坂は当時は寶巌寺の一部であったので、寶巌寺でお生まれになったことに間違いはないが、現在の小さくなった寶巌寺ではないことに注意しなければならぬ。現寶巌寺が上人誕生の地であるなら、上人の父は寶巌寺の住職であったことになるが、一方で上人は河野一族の武将通廣と伝えており、矛盾している。記事を書くときは注意しなければならない。
前置きが長くなってしまったが、人出を避けて今日寶巌寺へ行って来た。本堂で一緒になった檀家の一人と見えるお婆さんは、綺麗になったと喜んでいたが、綺麗になったのは間違いないが、長い歴史が焼失した事実は覆いようも無く、残念の窮みである。一遍上人の木像も無く、膨大な量の記述があった河野氏系図も今は無い。軒丸瓦に「隅切り折敷に三文字」紋はあるが、本堂扉の謎の「丸に九枚笹」の紋は復元されていない。この紋の由来については何の記録も伝承も無く、全くの謎の紋であったが、その謎は今や痕跡も残っていない。
そのほか、湯築城が廃城になった後、その廃材で建て直したとの伝承もあったが、それらを検証する手懸りは総て失われてしまった。無念と言うほか無い。