再び腰越状の「土民百姓」について

佐藤さん、トラックバックを送って頂き、有難うございました。私は歴史には素人で、大きなことを言える柄ではありません。また、腰越状全文を読んだこともなく、平安時代から鎌倉期の言葉遣いや社会構造に関する知識もありません。
ただ、義経は大好きであり、たまたま百姓に関して網野先生の本を読んだことがあったので、貴ブログで「被服仕土民百姓等」と言う文言を見て、あれと思った次第です。網野先生の本を読んでいなければ百姓を農民のことと、何も疑問を持たずに終わっていたと思います。
土民百姓と対比するような形で書かれているのを見て、この時代には百姓はまだ農民ではなかったはずと、念のため歴史の専門家にお尋ねしたところ、百姓が農民の意味になったのは、早くても室町時代だろうとのお答えでした。ではここに書かれた百姓とはどういう人か、土民とは、また土民百姓と対比しているのはどう言う意味かと色々考えたり、貴ブログを読み直したりしました。その結果、土民を氏素性のいかがわしい人と書かれているのに気がつき、それなら百姓とはもろもろの姓を持つ人ですから、これを氏素性のはっきりした人と言い換えれば、両者をすっきりと区分して説明できると思った次第です。
この解釈が正しいかどうか、私には判りません。正しいなら当時の社会構造の一端を窺わせるものと言う気がします。
しかし疑問もあります。それは社会的立場の上の人を先に書くのが自然だと思いますが、そうであれば「百姓土民」の順に書くのではないでしょうか。当時の言葉遣いや人々の意識や習慣等については全く知識がありませんので、私の疑問と言うしかありません。平安時代の荘園には荘官の下に百姓がおり、その下に作人がいたと聞きます。この作人は土民なのだろうかなどと推測していますが、如何でしょうか。伊勢三郎は荘園にも属さなかった人物と思いますので、土民にも色々あったものと想像します。
腰越状の土民百姓につきましては私も佐藤さんが仰るように、一つの問題提起であって結論は保留し、諸賢のお考えをお聞きしたいと願っております。
【参照】腰越状の再検討2