脇屋義助

周さん、トラックバックを有難うございます。
脇屋義助が伊予に来たのは、南朝方梃入れのために派遣されて来たのだと思っていた。それがそうでなく、北陸で敗れ、美濃根尾谷に逃れ、そこで次第に勢力を伸ばして来たが、平野部に進出する寸前で土岐氏に遮られ、伊予に逃れたと言うのが実際の姿だったらしい。逃走経路については「愛媛の歴史と文化財(資料室)」に関連投稿が纏めれれて居る。
義助は伊予に着いて確か一ヶ月位で病死している。余りにも早い死なので、病死は表向きのことではないかと疑いたくなるが、期間が短い割りにあちこちに足跡を残していて、凄く活動的だったと思わせるものがある。その子孫はしっかりと愛媛に根を下ろしているようで、明治の頃活躍した人も居り、新田高校の創始者もその一人と聞く。一度詳しく調べて見たい。