「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判−その3

「一の谷」はどこだったのか。これについては「兵庫歴史研究会」のサイトで詳しく述べている。(「一の谷合戦」だけを見るならこちら。)
詳細は上記サイトに譲るとして、源平合戦のころには、須磨に一の谷と言う地名はなく、鵯越の下の谷が一の谷であったと言う。平家ゆかりの福原はその南に当る。これなら「一の谷の逆落とし」の意図が無理無く理解できる。義経は奇襲攻撃で平家本陣の壊滅を狙ったのであろう。
そもそも奇襲攻撃を行うには3つの条件を満たすことが必要と聞く。
1.そこを潰せば全軍が崩壊する要の場所であること。
2.奇襲を掛けるまで絶対に隠密行動が可能なこと。
3.成功の確率が高いこと。
「一の谷」が鵯越の下の谷であり、その直ぐ先が平家本陣であるなら、上記3条件を完全に満たし、結果は源氏の大勝利であった。平家は知盛以下、大手・搦め手が幾ら頑張っても、本陣が壊滅してはどうにもならない。
ここで注目すべきは義経の情報収集とそれに基づく作戦立案、及び作戦遂行に欠かせぬ事前の準備である。神戸市街地の北に広がる山岳地帯は、当時鷲尾党が抑えていた。その山岳地帯を抜けて鵯越に達したと言うことは、事前に鷲尾党を味方に引き入れていたことを意味する。このように見ると源氏の勝利は義経の情報戦の勝利であったと言えよう。その意味で義経は近代戦に通じる武将であったと感嘆するほかない。このような武将は義経以外には信長しかいない。
NHKの番組では本稿で述べた点に関する考察は皆無である。見識を疑う。