「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判−その6

 先ず河野通信から見てみよう。通信は何のために屋島に行ったのか。平家に味方するためでないことは明らかである。義経が阿波に上陸したのを知って、味方するために馳せ参じたのか。阿波から伊予、伊予から屋島への所要日数を考えれば、通信は義経の阿波上陸を知る前に出発したことになり、これも有り得ない。では単独で屋島の平家と戦う積りだったのか。通信にそれほどの力はないので、これも否である。一方熊野別当湛増にも同じことが言える。
 義経の阿波上陸を知らず、単独で平家と戦う力のない両者が、同じ日に到着したのは何故か。それは義経・通信・湛増の間で練り上げた約束だったと考えるしかないであろう。つまり、源氏・河野水軍・熊野水軍三者が21日に屋島で合流する。これが義経の作戦だったのではなかろうか。
 ところが運悪く直前に台風に襲われ、源氏の舟が多数損傷し、約束の日に間に合わない事態となった。河野・熊野水軍は既に出発しているはず故、手を拱いていては源氏が約束を違えたことになり、作戦全体が崩壊する。その緊急事態を打開するため、義経は行ける者だけで急行し、21日に屋島で合流しようとしたのではなかろうか。平家物語などが伝えるように、僅か150騎で荒れる海を強行突破して阿波に上陸したのは、このような事情によると考えられる。
 では僅か150騎で勝算はあったのか。ここで注目されるのは、田内左衛門則良率いる三千が河野氏討伐に向かい、屋島が手薄だったと言う記述である。平家物語では、義経は上陸後屋島の兵力を尋ねたところ、田内勢三千が河野氏討伐に遠征し、屋島に残るのは凡そ二千、そのうち千ほどはあちこちに分散配置され、屋島には千もいるかどうかと言う答えを得たことを記している。この記述は吾妻鏡にはない。
 この記述は本当か。義経は事前に屋島が手薄なのを知っていたのではないか。平家は天皇以下守らねばならない大切な人々を抱えている。戦闘になった場合これは大変な重荷で、その警護に多くの将兵を割かねばならない。その結果屋島に千ほどの兵力があっても、防衛口の一つ一つの兵力は少なく、実際の戦闘場面での兵力は互角となる。義経は平家方兵力の実態を知っていればこそ、僅か150騎でも行きさえすれば何とでもなると渡海を強行したのではなかったか。平家物語が記すように、敵状を知らずに飛び出したのなら、それは蛮勇に過ぎない。一の谷合戦でも綿密な作戦で平家本陣を一気に壊滅させた名将義経なればこそ、敵方兵力の状況を知るが故に採り得た、臨機応変の決断であったと考えるのが至当であろう。(続く)