「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判−その5

番組では屋島合戦についても重要なな事実を無視ないしは見逃している。平家物語吾妻鏡に記されていることを抜き出して見よう。(平は平家物語、吾は吾妻鏡
元歴2年2月18日 義経荒れる海を渡り、阿波に上陸(平・吾)
           義経平家五千のうち田内勢三千が河野氏討伐のため遠征中であることを知る(平)
       19日 義経屋島を攻撃(吾)
       20日 義経屋島を攻撃(平)
       21日 平家讃岐國志度道場に篭る(平・吾)
           熊野別当湛増二百余艘、源氏に加はる(平・吾)
           河野四郎通信、一千余騎の軍兵を率いて源氏に加はる(平)
           河野四郎道信、粧三十艘之兵舩、參加(吾)
           田内左衛門降る(平・吾)
       22日 梶原景時以下源氏勢屋島到着(平・吾)
この記述から義経屋島を攻めた時、平家方は田内(でんない)左衛門則良以下三千が河野通信討伐のため不在で、屋島は極めて手薄であり、田内勢は遂に合戦に間に合わなかったこと、義経は手薄な屋島を攻めたこと、河野・熊野両軍とも同日に参陣していること、などが判る。これを仔細に検討すると、重要な問題が浮かんで来る。番組で何故この記述に目を向けなかったのか理解し難い。そもそもこの記述だけからも、河野・熊野両軍は壇の浦合戦の時に平家方から寝返ったのでないことは明白である。NHKはこの点をどう説明するのか。
更に上記の記述から幾つかの疑問が生じる。河野・熊野両軍とも屋島までの所要日数を考えると、義経の阿波上陸前に領国を出発していることになる。これは何故か。両軍とも単独で平家を攻める積りでやって来たのか。また同じ日に到着したのは偶然か。田内勢も同日に屋島に帰着しているが、これも偶然か。
以下これらを検討して見よう。