「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判−その8

平家物語吾妻鏡も伊予における合戦について何も記していないが、田内左衛門尉が屋島への帰還に際し、討ち取った首を先に送り、首実検をしたとの記述があるので、伊予において相当な合戦があったことは事実と見て間違いない。
この記述で疑問に思うのは、首実権が2月19日で、義経の攻撃が始まった日であるが、平家方は義経が迫っているのをまだ気が付いていないのか、田内勢の帰還を急ぐよう指令した形跡が窺えないことである。結局田内勢は合戦に間に合わず、21日に戻りはしたものの屋島は既に陥落した後で、義経の命を受けた伊勢三郎の口車に騙されて降伏してしまった。平家方の状況把握力と情報収集力の弱さをここでも感じる。
このように見て行くと、河野通信は何らかの陽動作戦で平家軍を屋島から引き出し、義経屋島攻撃に際してその平家軍を最後まで屋島から分断しておく役割を果たしたと言える。つまり、義経が勝てる状況を作り出したのは通信であり、義経勝利の陰の演出者が通信であった。戦後河野氏が功績を高く評価され、西国武士の中でただ一人守護に準じる地位を与えられたのは、屋島合戦における貢献によるものではなかったか。