土岐氏はいつ伊豫に来たのか

昨日の推測が成り立つかどうか、個々に調べて行かねばならない。その手始めに、いつ土岐氏が伊豫に来たのかを探るため、土岐氏の側の資料を調べる。美濃源氏フォーラムの『土岐氏美濃守護への道―源国房から土岐頼芸まで』を見ると、先ず土岐光行について次のように記されている。

(六代)土岐光行( ? 〜1249)従五位下 出羽守 検非違使 土岐判官
 父光衡に劣らぬ器量人といわれ、若くして後鳥羽院西面の武士となり、土岐判官と号しました。妻は、千葉氏である東胤頼の女で、鎌倉幕府の有力御家人筆頭との閨閥が、その後の土岐氏の発展に大きく寄与しています。光行は、「承久の変(1221)」に後鳥羽の京方として一軍を率いて参陣し大敗しますが、断罪を免がれたのは千葉氏の有力さを表しています。その後浅野判官を号し、現土岐市浅野の永松寺が菩提寺で、古木の傍らの宝筐印塔が光行の墓と伝えられています。

承久の乱土岐氏が京方に立ち、敗れたにも拘わらず生き延びたことは驚きである。だが、京方で戦った土岐氏河野氏監視に起用するとは考え難い。光行の次の光定についての記述を見ると、

(七代)土岐光定( ? 〜1281)従五位下 隠岐守 
 光行の五男で、鎌倉幕府執権北条氏から妻を娶るほどとなりました。当然鎌倉とのつながりが強かったものと思われますが、記録には余り表れていません。その後、功あり伊予国浮穴郡地方(松山市・重信町・久万町)の地頭職となり、悪党讃岐十郎を搦めとった功績で隠岐守に任ぜられました。法名は定光、号興源寺にて松山市東方の寺跡に光定の墓といわれています。又、近くの土岐神社・徳川城は、伊予土岐系図による四代守護康行の四代後裔頼政の史跡です。

とあり、何かの功績で浮穴郡に任じられたと記されている。だがその功績とは何かについては触れていない。光定が生存中、国内で大きな争乱はなかった筈で、一郡を貰うほどの功績とは何か、非常に考え難い。強いて言うなら文永の役(1274)であるが、この時の功績とも考え難い。光定に与えられる前は誰かの所領であった筈であるが、その所領を没収されたとすると、余程の不都合があったことになる。そのような事件が存在したのか、厳密に調べる必要がある。
以上巷間伝わる土岐氏の歴史と伊豫の歴史とは整合しない感がある。川岡先生と山内譲氏の論文を入手することが急務のようだ。

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【追記】光行は幕府方か?(2005・10・12)
美濃の林様から頂戴した「'93美濃源氏土岐氏研究講座」によると、承久の乱に際して光行は幕府方で戦ったとあり、「土岐氏美濃守護への道―源国房から土岐頼芸まで」の記述と食い違う。承久の乱前後の土岐氏の論功行賞を考察すると、幕府方であったとする方が無理なく理解出来るように思う。本件に関する談話室ゆづきへの投稿#3719の一部を参考のために転載する。

「'93美濃源氏土岐氏研究講座」によりますと、承久の乱(1221)の折、土岐光行は北条方につき、新補地頭と言われる地頭職を多く拝領していること、その子、光定(?〜1281)の時から伊豫との関わりが始まったと述べられています。
美濃源氏フォーラム」の「土岐氏美濃守護への道―源国房から土岐頼芸まで」の項を見ますと、土岐光定が「伊予国浮穴郡地方(松山市・重信町・久万町)の地頭職」となったと記されています。
これだけでは光定が伊豫浮穴郡の地頭になった年は判りませんが、承久の乱からそれ程経っていない頃であることを示唆していると思われます。頼朝が義経探索と平氏の残党追捕を口実に、諸国に守護を、公領・荘園に地頭を設置したのは1185年(元歴2年/文治元年)で、宇都宮氏が伊豫守護になったのはこの時でしょう。だが土岐氏浮穴郡の地頭になったのはこの時ではなく、承久の乱で空き家となった元河野氏の所領の一部を土岐氏が拝領したのではないでしょうか。
土岐氏が伊豫において地頭となったのが承久の乱の後としても、承久の乱直後か、通久が伊豫に戻った時、或いはその少し後なのかによって、土岐氏浮穴郡の地頭となった意味合いが違って来ます。承久の乱直後なら戦の論功行賞であり、通久が戻った後なら単なる論功行賞でなく、河野氏監視網形成を目的とした可能性を考えるべきだと考えます。この点を考える上でもう一つ、承久の乱の後、元河野氏の所領を直ぐに守護宇都宮氏配下に組み込まなかったのは何故か、その理由も解明する必要があると思います。赤橋氏や大仏氏が伊豫に来た時期、目的も同様の観点から明確にする必要があること言うまでもありません。