南北朝争乱期前後における土岐氏の立場は?
南北朝争乱時に土岐氏は尊氏とともに戦ったそうだが、伊豫土岐氏はどうだったのか。その前、幕府滅亡時にはどちらに立っていたのだろうか。
伊豫においては河野通盛は幕府方で戦い、敗れて一時身をかくし、朝廷方で戦った得能・土居氏は大きな恩賞を得て、最盛期を迎える。この時期道後平野は朝廷方・南朝方が優位となり、得能通綱は1334年に荒廃していた寶厳寺を支院を含めて再建し、拝志郷の一部の田を寄進している。その一方で土居氏は得能氏とともに近隣の北朝方の諸城を始め、国府や大洲まで北朝方を攻撃している。中先代の乱では赤橋氏を恵良城に討ち、更に立烏帽子城、赤瀧城に攻め、討ち果たしている。
しかしこの一連の戦いで何故か土岐氏の名が出て来ない。土居氏は北朝方の大森氏を盛んに攻めているので、伊豫土岐氏が北朝方であったなら、土岐氏の徳川城から程遠からぬ土居氏との戦が記録されていなければおかしい。それが見当たらない。
一方mino阿弥氏の談話室ゆづきへの投稿『#3519 分郡守護 07/21』に、
「愛媛県史」によれば守護河野氏がいてその下で地頭職として一部の所領を持っていたに過ぎないが応安五年沙弥祐康寄進状写によれば安富左衛門三郎跡の領地を丹羽左衛門次郎と安富七郎に与え、それ以外は浄瑠璃寺に寄進している。こうした地頭職ではやりえなかった欠所処分権を掌握していたという点からみても河野氏の力が浮穴郡に及ばず土岐氏が郡地頭を越える分郡守護であった可能性がある。以上は郷土史家横山住雄氏の説です。
と、南北朝合一(1392年)の前の応安五年(1372)の事績が記されていることから、南北朝争乱期に伊豫土岐氏が浮穴郡に存在し、相当な勢力であったことは間違いないと思われる。にも拘わらず、両者が戦った形跡が無く、道後平野の北朝方として土岐氏が語られるのを聞いたことが無いし、伊豫における戦いに土岐氏の名が出て来ないのも不思議である。
この辺りをどのように見れば良いのか、一つ一つ解き明かして行かねばならない。
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【追記】応安五年(1372)はどのような時期か(2005・10・12)
その手始めとして、この応安五年(1372)がどのような時期に当たるのかを見てみよう。
1342(康永1年/興国3年) 忽那義範、土居通世と連合して湯築城攻撃。
湯築城陥落。(忽那一族軍忠次第)
この後、懐良親王は忽那島から九州に向かう。
脇屋義助、伊豫に到着後間もなく国府で病死。
讃岐国から侵入した細川頼春により、川之江城、千丈原の宮方軍敗戦。
宮方の伊豫国守護の大館氏明、世田山城で戦死。宮方、不振に陥る。
1350(観応元年/正平5年) 通盛、室町幕府から伊豫国守護職に補任さる。
1365(康安4年/正平20年) この頃、大内氏、山口に守護館を造る。
1362(貞治元年/正平17年) この頃から善応寺に寺領を寄進。
通盛死去。
1364(貞治3年/正平19年)通朝、細川勢に攻められて、世田山城で戦死。
「温泉郡湯月城を細川武蔵守奪ヒ取レ、恵良城に引篭」(予章記)。
1365(貞治4年/正平20年)通堯、湯築城を攻め、戦果を上げたが細川の大軍に
攻められて九州に逃れ、南朝方に転じる。
1368(応安元年/正平23年)通堯、帰国し、北朝勢力を撃退し、伊予の平定を
達成する。
1372(応安5年/文中元年)土岐氏、安富左衛門三郎跡の領地を丹羽左衛門次郎
と安富七郎に与え、それ以外は浄瑠璃寺に寄進。【※】
1379(康歴元年/天授5年)政変により幕府内で細川頼之失脚。義満は通堯に北
朝方帰参を勧誘。
河野氏北朝方に戻る。
1381(永徳元年/弘和元年) 河野氏、東予2郡を割譲することで、細川氏と和議
成立。
1382(永徳2年/弘和2年) 伊予の国人らが河野郷土居の万松院に集まり評議。
1,386(至徳3年/元中3年) 河野通之、元服(予章記)。
通之、将軍義満の意向により細川頼之と親子の契約。
1389(康応元年/元中6年) 将軍義満、百余艘の船で厳島神社参詣。
通義、周防竃関(上関)へ渡り、将軍に拝謁。
1391(明徳2年/元中8年) 山名満幸は丹波から、氏清は和泉から入京し、内野
で幕府軍に敗れる(明徳の乱)。
1392(明徳3年/元中9年) 南北朝合一。
1393(永徳4年) 山名満幸、出雲に挙兵。義満、伊予の軍を伯耆に送
り、山名氏幸を救援。
1394(応永元年) 通義、生まれて来る子が男子なら将来その子に跡を
継がせることを条件に、弟通之に家督を譲る。
1399(応永6年) 大内義弘挙兵。幕府軍堺城を落とす。義弘戦死。
河野氏も和泉へ参陣。(応永の乱)
1406(応永13年) 通久、湯築城で元服。ここ頃から湯築城における
河野氏当主の元服記事が見られるようになる(河野氏家譜類など)。
以上を概観してすぐ言えることは、応安5年はまだ南北朝に分かれて争っていた時期で、まだ流動期だったことである。河野氏は同じ北朝方の細川氏に攻められて苦境に陥り、細川氏に対抗するため南朝方に転じて漸く所領を回復したばかりであった。かって守護を拝命したと言えその紙切れ一枚で全伊豫が服する筈はなく、しかも北朝・南朝共に守護・地頭を発令していた時期故、守護の権限が全伊豫に及んでいなかったのは当然である。従って、河野氏の支配が浮穴郡に及んでいなかったとするのは正しいが、浄瑠璃時の再建や欠所処分権を行使したことを以って、直ちに分郡守護に結びつけるのは早計である。分郡守護であったかどうかは、別の観点から検討すべきことである。また、そのような肩書きが余り意味を持たない時期であったことに留意すべきであろう。因みにその少し前、得能通綱も地頭でありながら寶巌寺の再建を行っている。この事実から当時の地頭は寺の再建を成し遂げる力を持っていたと見るべきではなかろうか。