ハンセン氏病患者隔離政策について

大政奉還後に外国からハンセン氏病患者の救援施設が無いのは文明国にあるまじきこととの批判を受け、明治期に隔離政策を採ったのは、当時としては当然のことであろう。当時の趨勢は完全隔離と緩やかな隔離と二つあったらしいが、どちらを採用するかは選択の問題である。予断だが、完全隔離はハワイ方式と呼ばれていたらしい。
1943年(昭18)特効薬プロミンが開発され、欧米では外来治療への転換がはじまったが、その有効性が確認されたのは戦時中であり、日本にその情報が届かなかったのは当然である。戦後すぐに我が国でもプロミンの開発に成功し、1947年(昭22)プロミン治療が開始され、翌年にはその効果が確認されている。それにも拘わらず、1949年(昭24)患者の隔離が強化され、時代に逆行したのことに憤りを感じる。更に1952年(昭27)にWHO(世界保健機構)らい専門委員会でハンセン病患者の開放治療政策を推奨したが、我が国における開放治療政策への転換は、1996年(平8)まで待たねばならなかった。WHOの勧告から実に44年後のことである。遅い。余りにも遅い。この点については行政は責任を採らねばならない。
当時日本の統治下にあった朝鮮(現在は韓国)と台湾の患者に対し、隔離政策が採られたことは同じ国内のことであり当然のことである。だが戦後の1945年(昭20)以降のことは、それぞれ韓国および台湾の国内問題である。両国において開放治療への転換が遅れたとしても、それは我が国政府の責任ではない。
このように見て来ると、責任の範囲および補償の対象範囲を明確にすることから始めなければならぬように思う。