樽味遺跡の王が統べる国

樽味遺跡が外交権を持つ国であったとすると、その版図はどの範囲だったか。魏志倭人伝によると、一つの国の戸数は千戸から五万戸である。外交権を持つなら有力な国であった筈であるから、戸数は万の単位であろう。
松山平野の弥生遺跡は多いが、それらが独立した国であったのか、樽味遺跡に在す王が統べる国の一部であったのか。樽味遺跡の範囲はまだ未確認であるが、ここだけで万の単位の戸数があったとは思えない。戸数が万単位となると、樽味遺跡を中心とし、付近に点在する文京遺跡その他の弥生集落は、樽味遺跡に在す王が統べる国に属していたのではなかろうか。魏志倭人伝が伝える国はかなりの広さを持っているので、松山平野に点在する弥生集落全部で一つの国を形成していたと考えても可笑しくはないだろう。弥生時代の集落地図を描いてみたら面白い。樽味遺跡の現地説明会に行ったおかげで、弥生時代のイメージが描けるようになった。