竹ヶ鼻御坊の所在地表記の混乱

岐南町史P.208に、木瀬御坊(後の専福寺)は慶長九年(1604)に葉栗郡竹ヶ鼻村に移転したと記されている。これは天正14年(1586)木曽川の大洪水の18年後に起きた大災害である。だがここで妙なことに、この一箇所以外は『岐南町史』も、『河野十八門徒について』も、羽栗郡竹ヶ鼻村と記していることに気が付いた。そこで木曽川の大洪水とそれに伴う国境変更と郡名変更の時期を調べてみた。
木曽川の大洪水により尾張葉栗郡木曽川の東と西に分断され、秀吉が木曽川尾張と美濃の境と定めたことによって、葉栗郡尾張と美濃に分割された。これは洪水の数年後だそうである。
尾張葉栗郡から美濃に編入された地域は羽栗郡と改称されたが、その時期を岐南町史P.209に天正年間と記されている。天正は1573-1592 年なので、大洪水も国境変更も改称も総て天正年間に起きたこととなる。改称の正確な年は判らないが、国境変更と同時か、同時でなくてもそれ程間を置かずに行われたと推測される。
以上を総合すると、木瀬御坊が移転したのは天正年間より後のことであるから、竹ヶ鼻村を葉栗郡と記したのは明らかに間違いで、羽栗郡が正しいことになる。校正ミスであろうが、正確に記して欲しい。だが木曽川大洪水とそれに伴う国境と郡名変更の時期を明確に把握出来たのはせめてもの収穫。木瀬御坊の所在地表記はもっとまちまちで、整理に梃子摺っている。