地理

等高線の凹みから昔の水路を探る

以前道後近辺の昔の水路を探索していた時、畏友寿太さんが、等高線の凹みが連続して存在するなら、それを結んだラインは水路の痕跡を示しているのではないかと、貴重な示唆を寄せて呉れた。山を巡る等高線は、谷の部分が凹んでいる。山のように勾配がきつい…

硫黄島の呼称変更でアメリカが困惑?

硫黄島の呼称を「いおうとう」と元に戻したことで、アメリカが困惑していると言う(ココ)。 【ワシントン=山本秀也】国土地理院が太平洋戦争の激戦地、硫黄島(東京都小笠原村)の呼称を「いおうじま」から「いおうとう」に変更したことで、米国内で困惑が…

硫黄島が戦後何故「いおうじま」になったか

二つ説があるようだ。どちらも戦後米軍が「いおうじま」と呼んだのが一般化したとする点では一致するが、米軍が「いおうじま」と呼んだ理由は二つに分かれる。青山繁晴氏は米軍二世が「硫黄島」と言う漢字を「いおうじま」と読んだためと言うのが一つ(ココ…

硫黄島を「いおうとう」と呼称変更

国土地理院は「硫黄島」の呼称を「いおうとう」に変更した(ココ)。当然の処置である。もともと「いおうとう」だったのに、戦後いつの頃からか「いおうじま」と呼ぶようになり、非常に違和感があった。テレビから「いおうじま」と聞こえると、「違う、いお…

餝萬津の光明寺

談話室ゆづきへの投稿に、「餝万郡の光明寺」と言う記述があり、これに不審を感じたので調べてみた。 「姫路市地域夢プラン」に「餝萬津門(飾磨門)」との記述を見つけた。これから餝萬津とは飾磨津であることが明らか。 同ページに光明寺が記載されており…

竹ヶ鼻御坊の所在地表記の混乱

岐南町史P.208に、木瀬御坊(後の専福寺)は慶長九年(1604)に葉栗郡竹ヶ鼻村に移転したと記されている。これは天正14年(1586)木曽川の大洪水の18年後に起きた大災害である。だがここで妙なことに、この一箇所以外は『岐南町史』も、『河野十八門徒について…

竹鼻別院の位置

逆川までが葉栗郷であったとしても、現在の竹鼻別院の位置は逆川の西で、河野島の中とは考え難い。今の別院は再建したものであるから、火災で消失した最初の場所がどこかを知る必要がある。

専福寺が竹ヶ鼻村へ移転した時期に関連する疑問

岐南町史P.208に専福寺は、慶長九年(1604)に葉栗郡竹ヶ鼻村に移転したと記されている。1586年の大洪水で現在の木曽川の流れが出来、その数年後に秀吉は木曽川を尾張と美濃の境としたと聞く。この変更により元の葉栗郡は尾張と美濃に分割され、美濃側は羽栗郡…

河野の名の由来は

河野と言う地名を持つところは全国に沢山ある。それらを地図と航空写真で調べたところ、殆どは山の中の地である。共通するのは皆川に接していると見られる点である。例外は三例で、一つは越前河野浦と伊豫風早郡河野郷と元尾張で後に美濃となった河野郷(元…

愛媛県に河野の地名無し

松山市と合併する前から北条市に河野の地名が残っていないように感じていたので、以前の地図を調べてみた。思った通りで河野という地名は無い。しかし、河野小学校、河野保育園、河野支所が地図上の狭い範囲に記載されているので、以前は河野という地名があ…

尾張国葉栗郡三宅村木瀬の地

河野惣道場(専福寺)が最初に造られたと言う三宅村木瀬の正確な位置は判らないが、凡その見当はついた。最初に作られた場所から木瀬道場が洪水で流亡後に伏屋村に再建した場所までは南北に十二・三町、中野村の河野称名寺は、伏屋村の再建場所から南南西に…

美濃河野九門徒成立の謎

河野門徒、瀬戸門徒、五坊野門徒の名は場所を示すと言う。そうであるなら、美濃河野九門徒をどう説明すれば良いのか。美濃河野九門徒とは美濃の河野郷の門徒の意味になるが、河野郷は昔尾張であったので、名称が整合しない。河野郷が美濃に移ってからの名称…

古代の葉栗郡

埋蔵文化財愛知の「西上免遺跡」で下記の記述を見つけた。 古代葉栗郡は『和名抄』によれば葉栗郷・河沼郷・若栗郷・村国郷・大毛郷の5郷がみられる。このなかで村国郷は現在の江南市村久野を中心とする地域とされ、村久野は村国の転訛とされている。美濃国…

往時の境川の位置

川島町史の記述と美濃中世主要地名分布図を現在の地図とを突き合わせると、往時の境川の流路が浮かんで来る。 航空自衛隊岐阜基地の南に小さい川がある。この流れが川島町史の「前渡辺りから三井山をかすめて更木を経て」と言う記述に合致する。美濃中世主要…

河野島

岐阜県羽島郡の東部一帯が河野島と呼ばれていたと言う(談話室ゆづき#5031 mino阿弥氏投稿)。これには正直驚いた。河野郷や河野島を検討して行く手がかりとして、同投稿で紹介された川島町史の記事を引用する。 注 河野島 昔木曽川は尾張川とも呼んだ。濃…

加納別院・河野善超寺・川手城の位置確認

加納別院は名鉄本線の加納駅の直ぐ傍。川手城はそこから1kmほど南、正法寺町の済美高校のある所。正法寺は西隣の薬師町にあったと言う。場所が逆との説もあるそうだが、その方が妥当な気がする。 川手城のちょっと西、舟田町に船田城があり、その直ぐ北の…

善超寺の場所見つかる

『天下統一期年譜 1582年』に出て来る河野善超寺の場所をはてなマップで見つけた(ココ)。航空写真もクリック一発で見れる。加納町の西隣。

専福寺の場所

葉栗郡本庄郷にあった浄土真宗寺院で、河野十八門徒と称する大門徒団を擁し、河野惣道場といわれたと言う専福寺の場所は、愛知県一宮市葉栗とのこと。しかし葉栗と言う地名は今は無くなっているらしく、検索しても出て来ない。しかし葉栗小学校と葉栗北小学…

江戸時代の後飛保村地内図面

「後飛保村河野郷に関する疑問点の纏め」は、天宝十二年の「葉栗郡後飛保村地内図面」に記載されている地名と、現在の対応する場所の地名とを対比することにより生じた疑問を列挙している。 同図は江南市歴史民俗資料館所収の「江南市史近世村絵図編解説書」…

後飛保村河野郷に関する疑問点の纏め(2)

(後飛保村河野郷に関する疑問点の続き) 4.現在の河野町河野は後飛保村地内図面の河野郷でなく、その北側の区域に当たり、河野郷は現在の河野町小脇と思われる。図には河野郷の東に小脇があるので、地名が時計周りに移動しているようだが、それは何故か。…

後飛保村河野郷に関する疑問点の纏め(1)

江南市史近世村絵図編解説書の後飛保村地内図面に記載されている河野郷に関して、疑問点を纏めていく。 1.江戸末期の後飛保村地内図面の原図は現存するのか。 2.図によると近世において河野郷は後飛保村のごく一部である。これから見て、河野郷は後飛保…

州股の考え方もう一つ

川俣・河股が二つの川の合流点(分岐点)と推測する見方がある。つまり2つの川が股状になっている所である。この考え方を取るなら、州股は川の両側に伸びる砂州となる。即ち、川の両側に伸びる砂州が股を広げたように見える場所である。州股川とは、そのよ…

墨俣は昔「州股」

墨俣は昔は州股だったらしい。州股なら何となく意味が判るような気がする。「州」とは「砂州」であり、「州股」とは砂州が二股状に分かれている場所ではないか。そのような場所は幾つも有りそうだが、それを地名としたからには余程の特徴があったのだろう。…

小脇とは?

「小脇」と言う地名を検索したら、愛知県に跳びぬけて多く存在する。江南市には河野町小脇と小脇町小脇があり、一つの市に2つもある。小脇とはどういう場所を意味するのか、何か曰くがありそうだ。

後飛保村地内図拝受

mino阿弥さんから後飛保村地内図が届く。同図と現在の地図とを比較すると、同図の河野郷の北側の区域が形状から見て現在の河野町河野、河野郷は河野町小脇と推測される。同図に小脇と言う地名が河野郷の東に存在するが、現在の小脇とは位置が違う。何故か昔…

江南市河野町の不思議

はてなマップで河野町の辺りを検索し、そこの航空写真を見ると、河野には人家が密集しているのに、小脇には非常に少ない。何故か?両者の歴史が関係しているのではないかと言う疑問が生まれる。 天保年間の河野郷は小さな一区画に過ぎないのに、現在の河野町…

尾州河野郷の重要性

大洪水で今の木曽川が出来る前は、木曽川の本流はこれと言える状態では無かったと言う。本流の一つが境川で、美濃と尾張の境界をなし、もう一つは三宅川で尾張を北から南に縦貫し、政治・経済・文化の何れにも重要な川。尾州河野郷はこの二つの川を扼す位置…

稲木神社やっと見つける

稲木神社がYahooと国土理知院の地図で検索しても出て来ず、「いつもガイド - ゼンリンの詳しい地図サイト」でやっと見つかった。稲木神社はかなりの規模を持つ由緒ある古い神社らしいのに、何故載っていないのか不思議。ゼンリン地図サイトの地図には神社名…

勝幡城の場所はどこ?

勝幡城の場所を見つけたのは良いが、住所表記が稲沢市と愛西市と二つある。その二つを地図検索で調べると、どうも同じ場所と思える。どうなっているのか訳が判らない。 いずれにしても三宅川すなわち当時の木曾本流に沿う場所で、一宮市まで遡上すると真清田…

境川と長良川の合流点

境川は長良川に合流する直前で向きを南に変え、かなり下流で合流している。向きを変えてから合流点までの流路は直線状で、人工の匂いがする。この部分は治水か利水を目的として造られたものではないだろうか。本来は向きを変えずにそのまま西に向かい、長良…