「しらせ」最後の航海に出港

今朝の新聞に、南極観測船「しらせ」が最後の航海に出港したことが、晴海埠頭に停泊中の写真を付けて報じられている。日本の南極観測は、白瀬中尉の探検に始まる。白瀬中尉は木造船「開南丸」で南極に赴いた。今思えば木造船で行くとは無謀極まりないことだが、あくまで目標に向かって進む剛直さ、気骨は感服のほかは無い。戦後の南極観測船は「宗谷」「ふじ」「しらせ」と続く。
「宗谷」は1936年(昭和11年)10月31日 ソビエト連邦からの発注で起工された耐氷型貨物船であったが、当時の国際情勢から結局ソ連に引き渡されなかった。その後海軍が買い取り、戦時中はの特務艦として何度も危機を潜り抜け、奇跡的に生き残った。戦後南極観測を開始するに当り、耐氷構造と船運の強さを買われ、大幅な改装を施されて日本初代南極観測船が誕生した。だがここに至るまでの道のりは生易しいものではなかった。南極観測の話が報じられた時、今の日本にそんな力が有るのか、そんな余裕はなかろうと思ったことを覚えている。それを可能にしたのは国民の熱気であった。国をあげて力を結集した成果であった。その間の事情は『運命の船「宗谷」と南極越冬隊の奇跡』に詳しく記されている。国民の誇りと期待を担った宗谷であるが、所詮は古い船であり、能力不足は如何ともし難く、氷に閉じ込められ、ソ連のオビ号やアメリカのバートン・アイランド号の救援を受けた。このような貧弱な能力がもとで、1958年氷に阻まれ、ついに樺太犬15頭を置き去りにせざるを得ないという悲劇も生まれた。だが翌年、再び越冬隊が南極を訪れたとき、樺太犬タロ・ジロの2頭が奇跡的に生き延びていて、隊員達と感激的な再会を果たしたという出来事があり、このニュースは当時世界中に報じられた。宗谷の貧弱な能力は悲劇や感動を齎したが、その間の観測の成果は非常に大きい。手探りで集めた石が南極が地球最古の大陸だと証明するきっかけとなり、オーロラ発生のなぞを解明する手がかりとなるデータを提供したりした。
二代目「ふじ」は余り印象に残っていないが、昭和59年には、科学史に残る世界初のオゾンホールの発見を成し遂げ、環境破壊の深刻さを世界に警告したことは特筆すべき出来事である。
三代目の「しらせ」は、排水量: 11,600t、全長:134m、全幅:28.0m、進水:1981年12月11日、就役:1982年11月12日。いつだったか横浜港で見学したことがある。排水量の割りには短くずんぐりとした感じだった。高い耐氷能力を持たせるため、船腹を厚くしているので、大きさの割りに排水量が大きいのであろう。船体はアラートオレンジに塗られている。観測基地の建物も同じ色。氷の中で見分け易いからだそうだ。後部甲板はヘリコプタの離発着用で、三機搭載しているそうだが、当日は一機だけ展示されていた。そのほか艦内の細かい点については記憶が無いので記せないが、「しらせ」は氷に閉じ込められた外国船を確か二度救助し、「宗谷」が救助された恩返しをしている。
心からご苦労様と労うと同時に、最後の使命を無事果たして呉れることを祈りたい。
心覚えのため、南極観測船の就役時期を記しておく。
* 初代:宗谷(1956〜1965)
* 2代:ふじ(1965〜1983)
* 3代:初代しらせ(1983〜)
* 4代:しらせ・2代目(2009〜就役予定)