三間の土居・今城氏のルーツ探索

談話室ゆづきで三間の土居氏と今城氏のルーツ探索の話題が続いている。この件に関する一次史料が皆無なので、解明は望めそうもない。現在僅かに残る資料土居記や清良記くらいしかない。これらに共通するのは、土居・今城は紀州鈴木党の武士、鈴木三郎重家が義経に従って奥州へ向かうに当たり、子息を従弟の河野通信に託したと言うことである。その重家は紀州牟婁郡藤城の城主だと言う。
嫡男の太郎千代松は伊予において、出身地が紀州牟婁の郡土居であることから、土居太郎清行と名乗ったと言う。二男は得能(或いは徳能)を名乗ったが後に今城に変わったと言う。戦国期、土居・今城共、西園寺15将に数えられ、今城氏は有馬殿と呼ばれた。その有馬とは旧領の名だそうだが、伊予に有馬の地名は昔も今も存在しない。この有馬がどこか判れば、土居・今城氏のルーツ探しの有力な手懸りとなる。
そこで和歌山県で有馬なる地名を探したが、全然見つからない。先日、ふと思い立って牟婁郡を探したら、何と、和歌山県だけでなく三重県にもあるらしいことに気が付いた。紀伊半島の南部一帯が牟婁郡だった可能性がある。。紀州とは和歌山県と勝手に想像していたのが大間違いだったのかも知れない。
そこで三重県で有馬を探したら、何と熊野市に有馬町が有った。近くに牟婁崎なる地名もあり、熊野市の北の紀北町北牟婁郡に属していることも判った。町村合併で地名が変わってしまったので、今の地図では昔の地名を辿るのが難しい。古い地図があればもっとはっきりするだろう。
熊野市の有馬が鈴木重家の所領或いは居た場所かどうかは判らない。それでも紀伊半島に有馬なる地名が見つかったのは大きな収穫だ。紀州とは和歌山県だけではなく、三重県に跨るらしいことを認識したのも大きい。これから先の進展が楽しみである。