岩崎神社を創ったのは別府通朝か

岩崎神社の説明板に、「建長年中 別府弥七郎●(注) 創祀」と記している。別府弥七郎とは河野通廣のことと推測していた。ところが「大川土居家」の系図を見ていたら、河野通廣の五男に通朝が居り、「住風早別府 因号別府七郎左衛門」と書かれているのを見つけた。ひょっとすると岩崎神社の創祀者はこの通朝かも知れないと思い、系図を見直すと、通廣は承久元年死」となっている。承久元年は1219年であり、建長年中とは1249〜1255年である。岩崎神社の創祀者を通廣と考えたのはとんでもない見当違いで、通朝なら時代も合いそうである。系図には別府七郎左衛門、説明版には別府弥七郎●であるから、厳密には一致していないが、この時代に別府に居たのは通廣の系統と考えられるので、両者は同一人物と考えるが如何なものか。
なお、説明版には「土居備中守」と「得能備後守」も祭神として記されている。この二人は談話室ゆづきで南朝方として議論された人物と同名であるが、岩崎神社が創られた時期は南北朝時代より前なので、また謎が増えてしまった。
(注:●は米偏に秀。何と読むか不明)

岩崎神社鳥居横の案内板に記された神社の由来。