岩崎神社に纏わる疑問

建長年中に岩崎神社が、後に湯築城が築かれる伊佐爾波の丘に何故創られたのか、考えると不思議なことばかりである。この地は当時誰の支配化だったのだろうか。河野氏は石井郷であり、別府氏は風早郷別府に住していた。従って別府弥七郎は自分の領内でも河野氏の領内でもない所に、河野氏が祖とする「白人明神小千命」や「河野家累代の霊」を祭る神社を建てたことになる。他人の領内でこんなことが出来たのは何故か。
次に建長年中とは文永の役が起きる20年程前であるので、元寇で亡くなった河野氏戦没者を祀ることが目的ではない。では、この時期に何故河野氏累代の霊を祭る神社を創ったのであろうか。目的も理由も判らない。
今一つ、岩崎神社とは関係無いことだが、承久の変の後、風早郷には赤橋氏が居たはずである。別府氏と赤橋氏とはどういう関係にあったのだろうか。赤橋氏配下だったのか、赤橋氏でなかったら誰の配下だったのか。同じことは河野氏にも言える。河野氏は誰の配下だったのか。少なくとも伊豫守護配下ではなかった筈である。
どうもこの辺りのことが判然としない。
最後に河野通廣が承久の変に際してどちらにも組しなかったのは、出家していたからとか、病気だったからと言われているが、大川土居家の系図が正しいなら、通廣は既に故人となっていたからである。別府家は通真が継ぎ、承久の変では鎌倉方で戦っている。没年は文應元(1260)年で、その跡を通朝が継いでいる。そうとすると、通朝は別府氏の当主となる前に岩崎神社を創祀したことになる。これも不思議。謎がまた増えた。