河野通秋を調べてびっくりの連続

談話室ゆづきで河野通秋について質問があり、様子をみていたが応答がない。ほって置くのは拙いので通秋について調べたら、『ガクガク岩と雨杉(木地師編)』と題するページが見付かり、そこに、何と島根県の吉賀地区に1315年に河野通弘が移り住み、通秋は吉賀河野氏の11代当主と書かれている。そして吉賀河野氏の初代通弘は、河野通廣(一遍上人の父)の子通秀の息子だと言う。と言うことは一遍上人の甥である。何故伊豫から吉賀に移ったのか、その理由は判らないらしい。河野氏と吉見氏と何か関係があったのか、或いはもっと古い時代からこの地の何かと河野氏は繋がりがあったのか、興味は広がるばかりである。
1315年と言うと、元寇弘安の役(1281年)の34年後、鎌倉幕府滅亡(1333年)の18年前で、歴史年表を見ると、悪党100人が摂津諸関の狼藉調査に来た守検使を襲ったとの記事などがあり、世の中はかなり騒然としていたらしい。通弘が吉賀に来たのもそのような情勢と関係があるのだろうか。それとも一遍上人が嫌気が差した身内の争いと関係するのだろうか。
今月の24・25の両日、別府七郎左衛門通朝のことを調べ、記事にしたばかり。その通朝は吉賀に来た通弘の叔父となる。そんな関係があるとは露知らず、別々に調べた二件がしっかり結びついてしまった。偶然だが誰かが誘導して呉れたかのではないかと、びっくり仰天。
その吉賀地区は島根県の南西の端で、山口県との境に位置する。ここから一番近い駅は、錦川清流線の終点、錦町である。昨年岩国の従兄弟を見舞った帰路、錦町の更に奥の雙津峡温泉に一泊した。錦川清流線は当初計画では錦町から更に雙津峡温泉、吉賀地区を通って、山口線日原駅まで行く筈だった。だが計画が中断され、全線開通は夢と終わったが、既に線路敷設工事が終了していた岩国−錦町間は錦川清流線となり、路盤工事が完了していた錦町と雙津峡間は、その路盤を利用してトロッコ遊覧車が走っている。雙津峡温泉に泊った時は、河野氏がそんな近くに居たとは全く知らなかった。通秋のことを調べて、通秋が居た直ぐ近くまで行ったのかと、またまたびっくり。
こういう偶然の結びつきを何度も経験するが、先祖の導きか。