通遠は二人居たのか

河野通遠について海遊庵主さんの書き込みがあったが、それを読むとますます疑問が膨らんで来た。通遠は垂れ髪の時より合戦に出陣して江州愛知郡並びに河州水野庄を賜っており壱岐守に任じられたと言うが、太平記には通遠は大高二郎重成に討ち取られた時、既に壱岐守だったのだろうか。ちょっと信じられない。通遠が発給した国分寺領や観念寺領の安堵状は県史に収録されている一次史料であるから、通遠が六波羅攻防戦で討死したと記す太平記の記事が疑われる。それとも通遠が二人居たのだろうか。太平記が討死したと伝える通遠は通盛の猶子と書かれているが、実子に通遠が居て、猶子が同じ名前とも考え難い。大きな謎である。
通盛の子息の名を詳しく記した系図が見付からない。通将や通時も居たらしいが、詳しく記したものは無いのだろうか。