笹が峠合戦の不思議

笹が峠における長宗我部元親の騙まし討ちで、大野氏側の武将が多数討死したと伝えられている。土居方玄もその時討死したと土居氏系図に記されている。
所が、笹が峠の戦いを伝える文書に記されている地名がどこなのかさっぱり判らない。笹が峠は旧小田町と旧河辺町の境にあるが、ここで戦いがあったとすると、整合が取れない点が多々ある。この戦いで討ち死にした65人の墓所は「笹ケ峠倶堂ト申所ニ有之、北平並■付近」と記録されているそうだが(談話室ゆづき#6975)、北平は笹が峠の南であり、遺骸を小田からより遠い北平に運んで葬るとは考えられない。北平に葬ったのが事実なら、戦いの場所はもっと南でなければおかしい。「予陽河野家譜」には『予土国境「笹ケ峠」で元親側「甫見(江)阪」に陣し、直昌側は甫見江阪より50町 離れた「樋ケ崎」に着陣とあり、前述の墓所は「笹ケ峠倶堂ト申所ニ有之、北平並■付近」』と記しているらしいが(談話室ゆづき#6987)、甫見(江)阪も笹ケ峠倶堂も樋ケ崎もどこか判らない。小田町と河辺町の境にある笹が峠は、予土国境ではなくかなり伊豫に入った場所である。この点について伊豫温故録は、戦いの場所を「伊豫・土佐の境目とあれば此処にあらず、小屋村の大野ヶ原なること確かなり。」と記している。これの方が素直に理解できる。一次史料が見付からなければ、真偽をはっきりさせるのは極めて難しい。