一条氏の終焉

一条氏は笹ヶ峠合戦があったとされる天正2年(1574年)以前に、事実上は滅亡していたらしい。形式的には、慶長四年(1599年)元親が死去し、翌年の「関ヶ原の合戦」で長宗我部氏が没落したことで、自由の身となった政親が土佐を去ったことで、土佐一条氏は終焉を迎えたといえよう。しかしそれより前、一条兼定は、天正三年(1575年)大友宗麟の好意による軍船で伊予に上陸し、法華津氏らの応援を得て幡多郡回復を企図したが、大軍を率いて中村に駆け付けた元親に粉砕されている。兼定が土佐を追われたのはそれより前であり、笹ヶ峠合戦の頃は既に元親が土佐を総て掌握していたのかも知れない。この前後の土佐の状況を把握する必要がある。