一条氏の滅亡時期

永禄十一年(1568年)一条兼定は妹婿の安芸国虎と呼応して、台頭して来た長宗我部元親を討とうとしたが、翌永禄十二年(1569年)に国虎が逆に元親に討たれてしまった。その後は長宗我部氏によって領土が蚕食され、しかも重臣の土居宗珊を無実の罪で殺したために信望を失い、ますます乱行を続けた兼定は、他の三家老羽生、為松、安並等の合議によって、天正元年(1573年)9月、兼定31歳の時隠居させられた。更に翌天正二年(1574年)に豊後国臼杵へ追放され、大友氏を頼った。兼定の豊後追放を知って憤慨した加久見城主加久見左衛門は、平素から一条氏老臣に反感を抱いていた大岐左京進、大塚八木右衛門、江口玄蕃、橋本和泉らと謀り、俄かに兵を挙げて中村を襲い一条氏の老臣を討伐したが、この混乱に乗じ、叛乱鎮定に名をかりた元親により中村を占領されてしまった。
天正三年(1575年)兼定は婚戚大友宗麟の支援を受けて土佐に復権をはかって攻め込んだが、四万十川の戦いで長宗我部軍に敗れて所領を失い、のち兼定伊予国宇和島の戸島に隠棲した。
その後も形の上では一条氏は存続しているが、実態は長宗我部氏の傀儡であり、実質的な滅亡は天正三年(1575年)と見てよいだろう。元親が土佐守に補任されたのが一条氏滅亡後であるなら、笹ヶ峠合戦の頃はまだ土佐守でなかったと思うがどうだろうか。