歴史の楽しみ方

湯築城が何故、現道後公園の地に築かれたかを探るには、当時の地勢を明らかにせねばならない。その意味で、北朝方の誰かが湯築城の場所を始めて軍事拠点とした時、湯築の丘は周囲を2本の川と条里制により作られた水路で囲まれていたと、当サイト及び「湯築城と伊予の中世」で記した。
では松山の条里制はいつ作られたか。それを明記する史料は無いらしいが、一つだけ手懸りがある。
伊予鉄市内線が走る188号線を拡張する前の行政発掘で出土した遺構は、皆条里制の地割により区画されていた。その行政発掘は14世紀の層まで掘り下げた。このことから14世紀には条里制は既に存在しており、作られたのはそれ以前即ち鎌倉時代かそれ以前と見て良い。そうであるなら、湯築の丘を始めて軍事拠点とした時、同丘は周囲を水路だ囲まれていたことになる。北朝方が南朝方の勢力下にあった道後平野に楔を打ち込むための橋頭堡を築くのに、湯築の丘は絶好の立地条件を具えていたのであろう。
従来、この地を選んだのは道後温泉に近く、人が多く集まり文化の中心だったからなどと言われて来た。この説明は河野氏が1400年前後に、本拠を風早郷から湯築城に移した理由とはなり得ても、戦争の最中に軍事拠点を設ける場所を選定する理由にはなり得ない。軍事拠点を設ける場所は、あくまで軍事的利点の有無に着目して選んだ筈である。
湯築城探索の集い(仮称)で以上の説明をして、更に、今日述べた道後町遺跡も道後の条里制の跡も、ここに参加している人は誰もが見て、知っていることばかりである。断片的な点情報を相互に関連付けて考えれば、誰でも今日話した見解に到達出来る筈。このように見、考えて行けば、自分らの住む地域の歴史が楽しいものとなり、往時の人々の息吹を感じ取ることに繋がる。この態度を湯築城探索の基本として進めたいと締めくくった。皆同感して呉れたので今後が楽しみ。
参照:湯築城不思議探索