古橋・橋爪選手の思い出

古橋選手が始めて世界記録を上回る記録を出したのは、昭和22(1947)年。ロンドン五輪はその翌年の昭和23(1948)年だった。当時は敗戦後間がなく、食料事情は勿論、総てに無い無いづくしの時代だった。古橋選手は「芋を食って泳いでいた」と語っていたが、その通りだったはずだ。栄養バランスなんて考える余裕はない。それにも拘わらず世界の標準を大幅に越えるスピードを出したのだから、驚嘆するほか無い。
古橋選手は理に適った華麗な泳ぎではなく、丸太ん棒のような太い腕を水車のように回転させる、見るからに力の篭った、兎に角前に進むのだと言う意志を感じさせる泳ぎだった。一方良きライバルの橋爪選手は滑らかな華麗な泳ぎだった。この二人がデビュー以後数年間、世界に対抗するもの無く、相手はお互いのみで競い合った。その結果、古橋選手の世界記録更新は33度になると言う。日本が国際水泳連盟に復帰する前の記録がこの中に含まれているかどうか知らないが、含まれていないなら、実質の更新回数は更に増える。どちらにせよ、更新回数が33度とは物凄いの一語で、それも最初以外は、総て自分の記録を塗り替えて行ったのである。当時、水泳大会があれば、古橋選手がまた記録を更新するだろうと、わくわくしていたことを思い出す。
彼らの活躍は、戦後間もない時期で総てに辛く、苦しかった日本に一筋の光を射しこみ、日本人を沸き立たせてくれた。それは、あらゆる面で到底勝ち味の無いと思われたアメリカにでも勝てるのだと言う光明だったかも知れない。今はどん底でも、やれば世界に対抗出来るのだと、可能性を自覚させて呉れたからかも知れない。兎に角日本人に勇気と希望と自信を与えて呉れたことに間違いは無く、単に水泳だけでなく、日本復興の功労者であった。その古橋広之進氏の逝去を聞いた時、巨星落つという感慨一入で、またまた戦後も昭和も遠くなったと感じた。