南北朝期の歴史は入り組んでいて理解するのが難しい

南北朝期には、南朝北朝がそれぞれ守護などを発令するので、伊予にも或る時期守護が二人居たと思われる。承久の変の後、宇都宮氏が伊予の守護に補され、南北朝期も北朝方の守護であった。そこに南朝が大館氏を伊予の守護としたので、守護が二人存在した。
細川頼春がその大館氏を攻めた。一般にこれを細川氏の伊予侵攻と捉えているようだが、頼春は伊予を攻めたと言うより、南朝方が守護として送り込んできた大館氏を攻めたと解すべきではなかろうか。
その後、清氏を頼之が攻めたが、その前後で頼之の河野氏に対する姿勢が大きく変化したように思われる。景浦勉先生は、清氏征討に河野氏が頼之を援助しなかったので、頼之が河野氏に対する姿勢を硬化させたのではないかと推測していらっしゃる。
通盛が伊予守護に補されたのは1350年、頼之は1363年に通盛に対し、守護職を確認する書状を2度も送っている。だがその年頼之は清氏を討ちとって叛乱を征圧し、阿波・伊予の守護に加えて讃岐と土佐の守護に任ぜられ四国管領とよばれたと言う。この時点で通盛は伊予守護から外されたのか、どうも良く判らない。
その翌年の1363年に通盛は通朝に惣領職を譲っているが、翌1364年に通朝は侵攻して来た頼之と戦い、世田山城で討死した。
状況が入り組んでいて判りにくかったが、やっと大筋を整理出来た。更に細部を詳しく詰めなければならない。