漢委奴国王印の委奴とは

かって志賀島で発見された金印「漢委奴国王印」の「委奴」をどのように読むか、昔から盛んに議論されて来た。これを「漢の倭の奴国」と読むのは今では論外で、「漢の倭奴国」が正しいとほぼ決定した。但し、これは委が倭を略記したものと言う解釈が前提になる。
ところで「委奴」つまり「倭奴」とは何か、或いはどこかが判然としていない。一昨日から漢音・呉音や上古音を調べていて、偶然倭奴について論じているサイトに出会った(ココ)。そのサイトでは、倭奴(委奴)は匈奴と同じ筆法の蔑称であると論じている。匈も倭も民族を表す差別文字であり、奴は民族とは関係ないが差別文字である。つまり倭奴も匈奴も民族を表す差別文字の後にもう一つの差別文字をくっつけた蔑称であり、同じ構成であると言う。目から鱗。卓見と思う。
この説によれば倭奴=倭である。そして中国の昔の史書の記述と一致する。それらを抜粋する。(委奴国参照)

旧唐書」<倭国・日本伝>10世紀前半成立
(セ)倭国は古(いにしえ)の倭奴国である。都から14,000里、新羅から東南の方角
 の大海の中にある。…
(ソ)日本国は倭国の別種である。…
 
「唐会要」<倭国伝><日本伝>10世紀後半成立
(タ)(倭国は)古(いにしえ)の倭奴国である。新羅から東南の方角にあり、大海の
 中に住んでいる。…
(チ)日本は倭国の別種である。…
 
新唐書」<日本伝>11世紀前半成立
(テ)日本は古(いにしえ)の倭奴である。都から14,000里、新羅から東南の方角の
 海の中にある。…
 
「論倭」(隣交徴書より)14世紀前半成立
(背景)日本で文永の役弘安の役と呼ぶのは、それぞれ1274年・1281年の元寇のことである。元(げん)は、これらの2度にわたる日本遠征で惨敗し、壊滅的打撃をうけた。そのため、元は日本を極度に恐れて、日本人を強悍でずるがしこい倭人として描くようになった。それがこの「論倭」にも表されている。
(ト)
(1) 倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに、独り元に服属せず、…
(2) 唐が百済を攻めた時、百済は(倭奴の)兵を借りたが白村江(はくすきのえ)で
 敗れた。(倭奴は)物欲しそうにうろうろしながらも撤退した。今(元の時代)の
 倭奴は昔(白村江の戦いの時)の倭奴ではない…
 
「宋史」<日本伝>14世紀中頃成立
(ナ)日本国は、本(もと)は倭奴国である。
 
「元史」<日本伝>14世紀後半成立
(ニ)日本国は東海の東にあり、古(いにしえ)は倭奴国と称した。

これらを整理すると大陸では、「倭」=「倭奴」であり、それが後に「日本」になったと認識していたと解される。ここで注目すべきは「日本国は倭国の別種」と言う記事である。どの書だったかに、日本だったか倭だったかの使節団が二つ、あちらの都で鉢合わせして本家争いを演じ、先方は扱いに困ったと載っている。これと日本国は倭国の亜種と言う記事と併せると、倭国から日本国が出来、しかも或る期間両者が並立していたと言っていることになり、神武東征(または東遷)を思わせる。
細かい議論はあるだろうが、大陸の史書に記された我が国に関する認識は、大筋では次ぎのようになる。
 
 倭(=倭奴) −−−> 日本
または
 倭(=倭奴) −┬−> 倭  −¬
           │          ↓(吸収)
           └−> 日本 −亠−> 日本
委奴国から出発して思わぬ副産物が得られた。だがこの二つの変遷はどちらも近年有力となった纏向遺跡邪馬台国と言う説と相容れないようじ思う。どう決着するか楽しみ。