纏向遺跡の大型建物跡は卑弥呼の宮殿か?

愛媛新聞纏向遺跡で発見された大型建物跡は卑弥呼の宮殿ではないかとの見解が提出され、いよいよ纏向遺跡邪馬台国の可能性が強まり、九州説は風前の灯と報じられている。だがこの見解は一方的に過ぎるのではないか。纏向遺跡邪馬台国とすると、魏志倭人伝や11月4日の「[歴史]漢委奴国王印の委奴とは」で紹介した旧唐書などの記述と整合しない。
魏志倭人伝では倭国は九州にあるとしか読めず、旧唐書その他を綜合すると倭国の別種の日本があり、それも元は倭であった可能性があると読み取れる。また彼の地で倭の使節団が二つ鉢合わせしたとの記述もあり、これは或る時期、倭と証する国が二つあったことを示唆する。
以上を素直に読めば、九州の倭国と大和の倭国(後に日本と改称)が同時に存在していて、纏向遺跡は大和の倭国の中心と見るべきだと思う。
このように考えると古事記日本書紀が言う神武東征(或いは東遷)とも整合する。想像を逞しくするなら、神武東征は、九州でうだつが上がらないのでドロップアオウトし、大和の地に新天地を開拓し、それが後に発展して日本となったのであろう。
纏向遺跡を考えるに当たっては、考古学と文献史学の両面から検討するよう心すべきである。