川岡先生の講演「道後の由来」を聴く

湯築城資料館主催の歴史塾「道後の由来」が子規博で開かれた。講師は川岡先生。
講演の要旨は資料の最後に纏められているので、それを記す。
・中世前期:高縄山を境に東を道前、西を道後と呼ぶ。
 一国の役所による行政区分として機能。
・中世後期:河野氏の権限が及ばない東予2郡・南予2郡は道前・道後の範囲から除外。
・中世末:道後平野一帯を支配する河野氏や本拠地(湯築城)を「道後」と呼ぶ。
 →「道後」が温泉周辺の都市空間を指すようになる。
以上の内容を史料を論拠として明確に、且つ判りやすく説明なさった。
お話の中には、道前・道後は一般に国府を境とすると言われているが、史料に基づくと伊予においては高縄山を境にしているとの主張も述べられた。
ただし、高縄山から粟井を結ぶラインを境とすると、風早郡は道前に属することになり、別の史料に通信の支配地域を道後7郡と記されているので、河野氏の本貫地の河野郷が通信の支配下に無いこととなる。
高縄山山頂から風早郡の地形を見ると、風早平野は西は海に面しているが高縄山とそこから伸びた山並で三方を囲まれている。しかし、北側は山地が続くが南側は道後平野との間に粟井坂が有るのみであり、しかも山中にも道後平野に通じる道が何本もあり、地形的には道前より道後との関わりが強いと思われる。
このように見て行くと、風早郡が道前とすると解せない点もあり、研究の更なる進展を期待したい。