鎌倉幕府滅亡の時、河野通盛はどこから出陣しどこへ戻ったのか

昨日年表風に鎌倉幕府滅亡から十数年間を、伊予の動きに関係する事柄を整理した。鎌倉幕府滅亡時に河野通盛は幕府側に立ち、六波羅防衛軍の中心となって奮闘した。この戦いで河野一族の得能氏と土居氏は倒幕側に立った。これを一族が二つに分かれて相争ったと見るか、一族の存続のため敢えて双方に分れ、いずれか一方が必ず残ることを策したと見るか、議論のあるところだろう。いろいろ検討すると、後者を採りたいと思うが、いつかこの件に触れる時が来るだろう。
通盛は六波羅で奮戦するが、足利尊氏が朝廷側に転じたことにより形勢は朝廷側の勝利となり、六波羅防衛軍は敗退し、東を目指して撤退する。しかしその第一陣は退路を阻まれ全滅する。それを聞いた第二陣は逃れるのは無理と全員自害した。だがその中に通盛の名は無く、どこに逃れたのか行方は判らなくなった。通説では鎌倉に逃れたとなっているが、上述の状況ではそれは有り得ない。元弘3年(1333年)のことである。
その翌年、伊予に代官として来て居た赤橋重時は恵良城に籠り、幕府側の旗を掲げる。それを得能・土居氏が攻め重時を敗走させる。恵良城は風早平野の北を守る要の城で、ここを陥したと言うことは、得能・土居氏ら朝廷側が風早平野を手中にしたと見るべきであろう。
その翌年、建武2年(1335年)赤橋重時は立烏帽子城に籠り再度兵を挙げるが、得能・土居氏らは再びこれを攻め、重時を敗死させる。
この年に通盛は帰国したと伝えられるが、判らぬことばかりである。まず、通盛はどこから出陣して行き、どこに戻ったのか。河野氏鎌倉幕府から貰っていた所領は道後平野の石井郷で、居城はその北部にあった縦淵城である。本貫地である風早平野の河野郷は承久の変で没収されている。縦淵城は、倒幕を果たし、赤橋氏を破って意気上がる土居氏の居城の直ぐ近くであり、そんな所に無事に戻れるはずは無い。一方、本貫地の風早平野は土居氏ら朝廷側が抑えた筈となると、そこも無理。敗残の通盛が戻れる場所は見当たらない。一体どこに通盛は戻ったのか。また通盛の留守中、通盛の妻子はどこに居たのだろうか。
更に疑問なのは、赤橋氏だけでなく、道後平野には北条一門の金澤氏と大佛氏が居たはずなのに、幕府滅亡時にこの両氏の名が全然出て来ない。両氏は何をしていたのか。或いはその時期にはもう伊予には居なかったのか。不思議である。
以上、昨日の記事の※1に絡む疑問である。