承久の変後の道後平野(1)

山内譲氏の論文と喫茶室の議論から、承久の変後の道後平野の状況が朧気ながら見えて来た気がする。纏まりの悪いものになるだろうが、少しずつ我が推測を書き記すことにする。
結論を先に言うと、幕府方は承久の変で勝利し、伊予における通信の所領を没収したが、そのうち一番おいしい道後平野と風早平野並びにそこに繋がる街道筋の主だった所を北条一門で独占し、残る山岳地帯に土岐氏を配し、いずれも通信時代同様に伊予の守護配下からはずしている。
北条一門の所領は明確ではないが、少ない史料から次のように推測する。久米郡伊予郡を金沢氏が領有し、風早郡と周敷郡の地頭代官として赤橋氏が赴任して来ていたらしい。金沢氏は赴任せず、郷ごとに地頭代を置いていたらしい。河野氏は所領を没収されたが、幕府側で戦った通久が阿波の富田庄を貰い、後これに換えて久米郡石井郷を貰い、伊予に戻った。
この配置で目につくのは、道後平野道後平野から四国各地へ向かう街道を、浮穴郡から土佐に向かう一本を除き、全部を北条一門で抑えていることである。浮穴郡から土佐へ向かう街道は、土岐氏配下であるが、その街道が道後平野へ下りた所は石井郷で、そこには河野氏を配している。
この河野氏の配置をどう見るか、これも興味あるテーマである。(続く)
この配置をどう見るか、色々な見方があるとは思うが。