承久の変後の道後平野(1)

【一昨日同じ題名で書いたが、纏まりが悪いので書き直すことにした。今度は上手く纏められるか?】
元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が倒れた後、北条氏の残党が各地で叛乱を起こした。中先代の乱と言われている。伊豫においても赤橋重時が建武元年(1334年)に風早平野の北端の恵良城で兵を挙げ、翌建武2年(1335年)には再び立烏帽子城で挙兵した。いずれも土居・得能氏らに攻められて敗北し、伊豫における北条一門の力は一掃された。
ここで幾つかの疑問が生じる。先ず、赤橋重時は何故伊豫で兵を挙げたのか。それ以前から伊豫に居たのか。この点について調べたところ、重時は確か周敷郡の地頭代官として伊豫に在住していたと言う記述を見つけた。この件はメモした覚えはあるのだがどこに記したのか見付からないので少々不確かなのが残念だが、伊豫に居たらしいことが判ったのは大きな収穫であった。だが周敷郡の地頭代官なら、周敷郡の面木山に築かれた立烏帽子城での挙兵は頷けるが、風早郡の恵良城に籠った理由が判らない。この件については、去る8月22日に海遊庵主さんが喫茶室に、伊予温故録に「赤橋駿河太郎重時、北条高時の一族にして之より先其の父赤橋駿河守風早郡に在りて北条氏の代官也」と言う記述がある旨投稿して下さった。そうであるなら最初恵良城で兵を挙げたことは頷ける。
以上で赤橋氏による中先代の乱の輪郭は理解できた。だが伊豫には北条一門の金澤氏や大佛氏も居たと聞いている。これら両氏はどこにいたのか。幕府滅亡時に何をしていたのか。また赤橋氏も含めて、いつ伊豫に来たのか。いろいろと疑問が残る。(続く)
 
【参考:海遊庵主さんの投稿

Re: 道後平野は北条氏だらけ 投稿者:海遊庵主 投稿日:2011年 8月22日(月)21時35分31秒

> No.2855[元記事へ]

今城さんへのお返事です。

嘗て、美濃の国土岐氏の衆が湯築城に訪れた際に、川岡先生に水軍丸船長の時代に、質疑応答の折「伊予の国・奉行所」(代官か?)の存在をお尋ねしたことを思い出します。(その際の返答は余り詳しくは無かったと記憶しております)
鎌倉時代建武の新政〜「中先代の乱」前後から南北朝への政情の変革が目に浮かびます。
赤松氏(北条氏流)の存在は、伊予温故録の記事にも記載在る通り〜「建武元年(1334年)春赤橋駿河太郎重時・北条高時の一族にして之より先其の父赤橋駿河守風早郡に在りて北条氏の代官也」と記す。
その時代の鎌倉幕府の組織図は、守護職奉行所(代官か)の役割分担が如何であったのか?〜何だか代官所の存在が歴史背景のキーワードに為るようですなぁ〜。 南無