湯築城の廃城は慶長13年より後か?

昨日の愛媛新聞の道標欄に三重大学の藤田教授が、秀吉が四国を攻撃した天正13(1585)年からから八藩体制が固まる寛永年間までの約一世紀の間の、伊豫の城郭群について興味ある見解を述べていらっしゃる。その中で湯築城についても思いもよらぬ見解が記されている。以下該当箇所を引用する。

湯築城小早川隆景が国主だった天正13年から同15年までは伊予一国支配の本城としての地位を保っていた。その後任大名・福島正則湯築城に入場するが、やがて国分山城(今治市)を改修して本城を移転した。しかし湯築城は、中予地域の豊臣蔵入地(直轄地)支配の支城として存置されたと推測される。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後、加藤・藤堂両氏が伊予40万石を折半して支配する。この段階の湯築城は、中予の藤堂領支配と松山城の抑えために機能し、高虎の養子高吉と重臣友田左近が配置された可能性が高い。したがって高虎が伊勢・伊賀に転封する慶長13年までは存在し、廃城はその後と推測する。

非常に面白い見解で、湯築城の廃城は福島正則の時代でなく、もっと遅いと言う点は、素直に頷ける。しかし、関ヶ原の戦いの後も松山城の抑えと言う見方は疑問に感じる。松山城築城は慶長7(1602)年に始まり、完成するのは慶長13年よりずっと後のことである。工事中の城の抑えと言うには本当かいなと首を捻る。
いずれにせよ慶長13年まで高吉と友田左近が居たという根拠を知りたい。また関ヶ原の戦いまで、豊臣蔵入地支配のために湯築城に居たのは誰なのか、これも知りたい。湯築城に居た人物は、湯築城で「土州様」と書かれた土器が出土しているが、土州様を接待した人である可能性が高いからである。