湯築城を理解出来ないのも無理ない話

湯築城を正しく評価できない人がおおいのも無理ないのかもしれないと思うようになった。昨日は少々頭に来たが、考えて見れば日本百名城スタンプラリーが無ければ湯築城に来ることは無かったであろう人達が、湯築城の歴史や由来を知るはずもなく、それどころか湯築城の名すら知る機会も無かっただろう。そのような人達が湯築城の価値を評価できる筈は無い。むしろ湯築城の名に触れただけでも大きな出来事だったと言うべきかも知れない。
スタンプラリーで初めて湯築城の名を知り、スタンプを押しに湯築城を訪れた人とは、譬えるなら現代のジャンボジェット機しか知らない人に、前大戦中の零戦や隼を見せるようなことだろう。人々が零戦の凄さを知っているのは、その話を聞いているからである。話を聞くこともなく、ただ見ただけでは何の感銘も受けないだろう。先日「ハヤブサ」のカプセルを見たが、何年も宇宙を旅して戻って来たあの感動的な話を知っているからこそ、これがあのハヤブサのカプセルかと興奮を覚えるのであって、何も知らなければこれは何だろうと首を捻ってお終いだろう。
湯築城についても同じこと。湯築城の名が知られ、その意義が正しく評価されるようにするには、湯築城物語を多くの人に広めることだろう。それには先ず地元からだ。そのためには何をすべきか。はて、はて。