日本百名城の登城記録を読んで

日本百名城の登城記録があるのに気が付き、湯築城の部を読んでみて愕然とした。湯築城の価値が全然伝わっていない。何も無いとか只の公園だというような書き込みが多い。これでは単に百名城スタンプを押して帰っただけ。
湯築城は時代の最先端の構造を持つ。それを他の真似でなく、周囲の地形を生かして、当時の武器では攻める方法の無い構造を智恵を絞って創り上げた、独創的・先進的な城である。湯築城のその構造は後の近世城郭で一般化した。武器が弓矢から鉄砲や大砲となったので、規模はずっと大きくなったが、二重堀、平山城、城内に居住区という近世城郭の一般的な構造は、湯築城において初めて実現したものであり、その時期は安土城よりも40年も早く、松山城や姫路城と較べれば70年も前である。当時そのような構造の城は存在しないので、完全な独創である。
中世の城なので天守閣などは持たず、純然たる戦うための構築物であるので、華やかさは全然無い。それがために見るべきものが無いと思うらしいが、天守閣が城ではないし、あのような綺麗な建築物は戦うためには不要で、平和の時代になって見せるために造られたとも言えるものである。戦国期に城は険しい山に登る中、湯築城は平地に留まり、構造を工夫することにより、秀吉に降伏するまで機能した。周囲の地形の何をどのように活かして、攻めるのが困難な城を創り上げたのか、当時の人々の智恵を見て貰いたいものだ。
上に二重堀と書いたが、城として築いたのは確かに二重堀だが、南北に近接して川があり、西側には条里制の水路が有るので、実質的には三重堀で弓矢の有効距離を越え、攻め手がなかった筈だ。東側のみは近接する川が無いので、それに代る何らかの防御施設を作っていた筈だが、それがどのようなものであったか、その解明も楽しみである。百名城巡りをするなら、そこまで見て欲しいものである。