慶長地震とは一つではなかった

慶長地震とは一つの地震ではなく、慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震の総称だった。更に正確に言うと、文禄5年9月1日、4日、5日と大地震が連続したので、慶長と改元したが、その後も地震が連続したのだそうだ。慶長地震ウィキペディア)から抜粋する(ココ)。
・慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0、寺社倒壊等。中央構造線における地震
・慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、豊後国をおそった地震。M 7.0〜7.8、死者710人。中央構造線と連続している可能性がある別府湾・日出生断層帯で発生した(上記地震との)連動型地震である。
・慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。六甲・淡路島断層帯における地震とされる。上記二つの地震に誘発されて発生した可能性がある。
・慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少なかったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万人を数えた。
・慶長会津地震会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日、会津地方をおそった直下型地震。M 6.9。寺社損壊、死者3,700人。
慶長三陸地震慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地震でM8.1。実際には千島・色丹沖の震源と連動した大地震津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。
中央構造線震源とする地震の記録は無く、従って周期は2000年以上と聞いていたが、慶長伊予地震と慶長豊後地震震源中央構造線であるなら、中央構造線震源とする地震が記録されていることになる。四電は何故これを直視しないのか。伊方沖を震源とする地震が起きないとは言えないはず。想定外言う言葉は使ってはならない。真面目に地震と向き合うべし。