湯築城歴史塾第5回中野良一氏の講演

流石湯築城跡の発掘調査に全期間従事した方だけに、湯築城の歴史解明に関し、考古学的見地から見た課題を的確に、判りやすく聞かせた。その中で次の5つの点について詳しく聞いて見たいと思った。
1.湯築城の形状について最初から問題視されている北東部の切り欠きについて、前回の講師である柴田さんが地形との関係と問題提起したのを検証するとして、湯築城とその周辺の地質について検討を加えた。これには中野さんの取り違えがあるように思う。柴田さんが注目したのは地形であって、地質ではない。地質が固いからそこを避けたのではなく、舌状に張り出している個所を避けたと言うのが柴田さんの見解である。中野さんはその個所は真砂土であって固くないから、掘るのは容易であるとの見解で、柴田説に疑問を呈した。この問題は柴田説を今一歩進めて、舌状の出っ張りの先端を巡る川に堀がぶつからないよう、堀が川と一定間隔を保つようにした結果、現在見られるような形状となったと考えるべきであろう。
2.湯築城、岡豊城、中村城から出土した同笵瓦が泉州(堺)からも出土していたとのこと。現在その材質を分析中の由。
3.土州様と書かれた墨書土器は、前回柴田さんが述べた通り、湯築城の第三段階の上の整地層の下からの出土で、1570年前後より前のものである点を間違えてはならないと強調。土州様が土佐守様の意味であるなら、長宗我部元親が土佐守になったのは1588年であるから、この土州様は元親ではない。湯築城の第三段階のころに土佐守であって当地に来た人物は誰か。
4.湯築城、岡豊城、中村城の縄張りに共通点とがあることを指摘し、それが何を意味するかは今後の検討課題と述べた。その中に本檀の下に基壇があり、その先の中段との間に堀切がある点が共通すると指摘。だが堀切が使われていた時期が城ごとに精査する必要があると思う。湯築城の堀切は早い段階で埋められたと思われ、使われたのは最初の極く短期間だけではないか。他の城の堀切が最終段階まで使われていたのなら、縄張りが共通するとは言えない。
5.湯築城外の堀を巡らせた一丁四方の方形館と若干ずれた位置に方形の溝(堀)があったことに最近気が付いたと紹介があった。その溝は恐らく方形であり、先に出土した方形館より時代が古い由。そうとするとその古い方形溝(堀)は条里と食い違うのではないかと尋ねたところ、条里の位置が時代を経て変わったと考えられると言う。では松山の条里制は何時出来たのかと更に尋ねると、8世紀と考えられるとのこと。その根拠は、岩崎遺跡で発見された北端が西に曲がった溝(堀)は、確認されただけで長さが南北に90m程有り、多分一丁の長さであったと推測されている。このような堀は条里制の存在を推測させるものであり、この堀は出土物から見て8世紀に存在していたと考えられるので、松山の条里制は条里制定の命が出た8世紀に造られたと見るべきだとの説明だった。松山の条里制はかなり遅い時期に造られたと言われていたが、それはそれ以前の条里の存在が確認できなかっただけのことだった。松山の条里制は8世紀に出来ていたこと、そしてそれが道後では後世になって位置をずらせたらしいこと、この二つは今日の最大の収穫であった。
次回は12月19日(土)で、最終回。講師は川岡先生。川岡先生のお話しを聞くのは久しぶり。非常に楽しみだ。