石手寺は勘違いしているのでは?

今日家内が写経を納めると言うので石手寺に行って来た。
石手寺は札所としても有名だが、商売熱心で歴史ある寺という雰囲気ではない。一番嫌なのは時流に乗ろうとする意図が感じられること。その一例は催し物に熱心なこと。その延長線上にあると思うが、山門の横に「集団的安保不用」と書いた紙が貼ってあった。
それなら問う。集団安保不用と言うなら、如何なる事態が起きても単独で守ると言うのか。それを可能にするにはどんな軍備が必要か、軍事費は幾ら要るのか。国連は集団安保のための組織ではないのか。集団安保不用と言うなら国連から脱退するのか。石手寺はこれらの質問に答えて欲しい。
そもそも寺がこういう問題に口を出すべきではあるまい。もう昔の話になるが我々が湯築城跡の保存運動を展開していた時、石手寺は「我々はこんな庭園が欲しい」と湯築城跡を日本庭園にした絵をでかでかと掲げていた。河野氏ゆかりの寺なのに何を言うかと腹が立ったのを今も覚えている。石手寺はしっかりした定見を持たず、唯々時流に乗ろうとするだけなのか。