今月は命日が3回

今日は親父の命日。父は早くに両親を亡くし、子供の頃から働きに出た。だが若くして肺炎を患い、その時の無理が祟って一命は取り留めたものの、片肺を失い、もう片方も半分駄目になり、言うなら四分の一肺で生きて来た。そのため医者からこの体で良く今まで生きて来れましたねと呆れられたことが何回も有った。
その親父が戦争が始まってまだ日本が好調だった頃から、この戦争は勝てないと言っていた。親父がそう言った理由はアメリカの技術力、工業力の凄さを知っていたかららしい。そして子供の我々に、兵隊に行くばかりがお国に尽くす道ではない。技術の進歩に盡すことはもっと大きな貢献だと何度も言った。その時は子供を兵隊に取られたく無いからそんなことを言うのでは無いかと疑っていた覚えがある。
だが戦後技術の道に進んで、初めて親父の言葉の意味を嫌時言うほど思い知らされた。アメリカとの技術格差のすさまじさ。どうすれば追いつけるのか、全然想像も出来なかった。と言うより絶望するしか無かった。例を挙げれば切りが無いので省略するが、機械加工精度一つを取っても天と地程の差があり、機械担当技術者がそれだけの加工精度があれば、どんな設計でも出来ると唸ったことを昨日のことのように思い出す。その技術格差はあらゆる分野に及んでおり、その格差を一歩でも縮めようと必死だったが、部分的に追いついたと思えたのは昭和50年代の後半だったと思う。その時マスコミは日本がアメリカを追い抜いたかのように浮かれていたが、第一線で戦う我々技術を担当するものには、マスコミの浮かれようが苦々しかった。それまであらゆる分野でアメリカがトップを独占していた状態に、やっとピンホールを開けたに過ぎない。それなのに天下をひっくり返したかのようなマスコミの浮かれ様には本当に腹が立った。今ではかなりの分野で日本の技術が確立されたが、ここに至るまで戦後70年余も掛かったことを思えば、我が生涯は親父の言葉の意味を噛み締める毎日であった気がする。