今日は兄貴が戦死した日

兄は中学(旧制)を卒業した後、志願して暁部隊に入隊した。暁部隊は陸軍の舟艇部隊で、小豆島を訓練基地としていた。小豆島の冨丘八幡神社暁部隊の戦死者全員を祀り、今も慰霊祭を執り行っている。感謝に堪えない。暁部隊が出動する戦場は最悪の戦場と聞いている。事実暁部隊第一期生三千名のうち、生き残ったのは僅か11名とか12名と言う。公報では兄の戦死日は昭和20年8月1日となっていたが、生き残った戦友達は「違う。8月11日だ」と仰ったそうだ。多分仲間の記憶の方が正しいと思う。
戦後日が経ってから気が付いたのだが、その兄は日本が勝てないことを百も承知していたように思う。それは兄が父に、「アメリカ軍に対抗できるのはドイツ軍しかないのではないか」と話していたのを何故か覚えていたからである。その時は意味が分からなかったが、戦後色々と知るようになって初めて兄が言った言葉の意味が分かった。分かってみると、兄は勝てないことを承知で志願したことになる。その気持ちは勝てないまでも国を守り民族を守る。ただそずに済んだが、だらしない戦いをしていたら、戦後もっと酷い扱いを受けた筈である。特攻隊に志願した人が、「こんなことをしても戦局を覆すことなど出来るものではない。だが、命を捨てて国を守ろうとした若者が居たことが歴史に残る限り、日本は立ち直るだろう。俺はそれを信じて行く。」と語ったと聞く。兄も同じ気持ちで志願したのだと思う。それが当時の多くの日本人の気持ちであった。
その気持ちは国内に残る一般人も同じだったと思う。あれだけの空襲を受け、大きな被害を蒙りながら鉄道も郵便も電気もガスも水道も、次第に機能は低下したが総てのインフラが最後まで曲りなりに機能したのは、国民一人一人が使命感をもって自分の任務に取り組んでいたからと思う。これは本当に凄いことだったと思う。日本を支えたのは一人一人が持つ使命感だったと思う。