正代初優勝

 今場所の正代は強かった。初優勝おめでとう。

 正代にとって初の優勝だけでなく、熊本県にとっても初めての優勝であり、時津風部屋にとっても初めての優勝だと思う。放送ではアナウンサーが双葉山以来の優勝と言っていたが、双葉山が現役時代は立浪部屋に始まり、引退時は双葉山相撲道場の親方を兼ねると言う異例の立場であった。時津風部屋を引き継いだのは現役引退後の筈であり、従って時津風部屋から優勝力士は出ていないと言うのが正しいのではないか。もしそうであれば、正代は時津風部屋初の優勝者である。熊本は加藤清正に始まり、野球では川上哲治と言う偉大な打者が出ている。正代も彼らに匹敵する素晴らしい力士に成長して欲しい。

菅新総裁に期待

 自民党新総裁は菅さんと決まった。以前、この一年程を麻生さんが繋いで欲しいと書いたが、あの時は菅さんと言う線は全然思い付かなかった。だが言われて見れば菅さんが最適であることに間違いない。全く灯台元暗しであった。アメリカでは視野の広い熟達した裏方と評しているそうだが、まさにその通り。在任期間が安倍さんの任期の残り1年程で終わるか、その後の3年間も続くかは分からないが、コロナ問題や景気後退などの問題が山積する今、政策に孔を開けずに遂行するには、打って付けの人物が居たことに感謝する。

大坂なおみの目を見張る成長振り

 大阪なおみが二度目の全米優勝。おめでとう。今年の戦い振りは本当に素晴らしかった。前回はコーチに支えられて勝ちとった勝利と言う印象が強かった。だが今回は自分の力で総てを跳ね返して掴んだ栄冠と感じる。しかもその間に黒人殺害事件が有り、それに対する明確な抗議姿勢を示し、全米にかなりの衝撃を与えたようだ。これも一人の社会人としての行動で称賛を得ているようだ。全米二度目の優勝と共に、記憶される出来事である。

 あと、全仏とウインブルドンの制覇に邁進して欲しい。

台風10号 松山では何事も無し

 松山市より遥かに台風の中心から離れている四国中央市で猛烈に吹いたと報じられているのに、松山では雨・風共何事も無く過ぎてしまった。松山とは全く不可思議な所で、南から来る台風は松山に殆ど影響を及ぼすことがないようだ。松山に雨・風を齎すのは、関門海峡を通って瀬戸内海に入った場合だけらしい。つまり南から北上して来た場合は四国山脈で遮られるらしく、松山に殆ど影響せず、西から東進して来た場合だけ松山に風雨を齎すようだ。松山とは本当に不思議な場所である。

またまた驚き、安倍首相が辞意を表明

 安倍首相辞任との憶測が飛び交っていたが、それが現実のものとなってしまった。原因は持病の再発。症状が再発し、新薬の効果は認められるものの、絶対的な保証はないからには政治判断を誤る危険は避けねばならず、交代するにはコロナ感染が減少傾向に入った今しかないと判断したとの説明。これは妥当な判断であろう。的確な判断を下した総理に敬意を表したい。長い間ご苦労様でした。この上は一日も早く病気を治して欲しい。

 本音を言うと国際情勢が際どい所に来ている現時点では、安倍さんに引き続きやって欲しかった。石破氏や二階氏は論外。後を任せられるのは河野太郎氏しかいないのではないか。彼に引き継ぐには、今直ぐは無理と思われるので、安倍さんの任期の残りは麻生氏にお骨折り願い、来年の総裁選挙で河野氏に引き継ぐしかないように思う。

 世界情勢は今危険水域に入り掛けている。昔ならとっくに戦争になっているだろう。だが安倍さん辞任の感想を尋ねた街頭インタビューでは誰もそんな意識は持ち合わせず。呑気なことばかり述べていた。安倍首相は記者会見で質問に対する答えの中で、抑止力の強化に触れていたが、そんな意識を持っている人は全然見当たらなかった。全くお寒い話だ。こんな状況で我が国は大丈夫だろうか。心配でならない。自民党よ、ちゃんとした総裁を選んで呉れよ。

 

米国はそこまでやるか

 トランプ政権はアメリカの歴代政権と違い、中国の無法行為をとことん排除しようとしていることは早くから見て取れたが、その目標達成のために、中国を米トル決済システムから追放しようとしているのだと言う。そのためには例えば或る銀行に中国要人の個人口座が開かれていたら、その銀行はその口座を閉じなければならない。これはその要人に対する制裁であるが、もしその銀行が口座閉鎖をしなかった場合には、その銀行の頭取や役員が制裁対象となるらしい。これは制裁に協力しない所は制裁を受けるということ。

 トランプ政権はそこまでやろうとしているとは想像も出来なかった。驚きの一語に尽きる。そこまでやったら米国自身にも損害が出るだろうが、それでもやると言うのは腹を決めているからに他ならない。日本の政府も企業もこの事態をしっかりと認識して対処しなければなるまい。

今日は兄の命日

 75年前の今日、昭和20年8月11日は、フィリッピンルソン島東側のラモン湾で兄が戦死した日である。兄は暁部隊の第一期生であった。暁部隊は4期まであったが、実践に間に合ったのは第一期生のみだったと聞く。暁部隊が出動するのは最悪の戦場であって、連絡も取れず万策尽きると暁部隊が舟艇で突っ込んで行ったそうだ。そのような状況で、隊員3000人の内生き残ったのは僅かに11名。

 兄の戦死日は公報では8月1日となっていたが、上記の状態では記録も残っている筈はなく、正確な日は判らないと言うのが正しいと思う。戦後暫く経って生き残った人が居ると知り、問い合わせた所、1日ではない、11日にラモン湾で舟艇特攻を掛けて戦死したと教えて呉れた。こちらも正確かどうかは分からないが、舟艇特攻を掛けた日であるなら記憶も確かではないかと思う。

 8月11日であるなら、終戦が数日早ければとの思いは有るが、日本軍が厳しく戦ったからこそ、戦後日本が侮られることが無かったと何かで読んだことが有る。武人は良く戦う者を尊敬し親近感を覚えるのは、洋の東西を問わず共通する心理である。もし日本軍がだらしない戦いをしていたら、戦後日本は酷い嘲りを受けていただろう。兄の戦死は残念だが、戦後日本が嘲りを受けることが無かったのは、兄達の奮戦があったお蔭と、感謝の気持ちで一杯である。この事実を教訓として、今後も日本は如何なる時も毅然たる態度を忘れてはなるまい。