河野通信と源範頼に共通する役割

屋島合戦においても壇の浦の合戦でも河野通信の華々しい活躍は伝えられていない。それにも拘わらず戦後河野通信の貢献は高く評価されたことは先に述べた通りである。通信の果たした役割は、屋島合戦に際して、源氏が勝つ状況を作り出したことにあったと考えるのが至当と思う。壇の浦合戦の最後の場面で阿波水軍田口氏の寝返りが勝敗を左右したが、寝返りの原因は、屋島義経の軍門に下った嫡子田内左衛門尉の身の上を田口氏が案じてのことと言われるが、これも通信の一連の作戦行動の結果である。このように考えると屋島・壇の浦合戦共に、通信は合戦で目立つ活躍は伝わっていないが、合戦の勝因を作ったことが大きな貢献であった。
屋島合戦勝利の陰の演出者が通信だったと考えると、源範頼の役割が似たものであったように映る。範頼は源氏の本隊を率いて各地を転戦し、これに対し平家方は常にエース知盛が相対し、範頼は苦戦の連続であった。そのため義経の華々しい活躍と比較すると範頼は如何にも見劣りし、凡将のように見られている。屋島合戦の時も知盛は範頼に相対していて屋島にいなかった。このように範頼が知盛を引き付け、その隙を義経が衝いたと見ると、範頼は源平の戦い全般にわたって、屋島合戦における通信の役割を演じたことになる。
範頼は一般に思われているような凡将だったのだろうか。本当は常に知盛が立ち向かわねばならぬ程の武将だったのではなかったか。そうだったとすると範頼は損な役割を演じ続けたことになる。範頼の実像はどうだったのか、検討し直す必要がありそうに思う。